どうして理由付けが必要だと

最近、21歳になった。
この4月からはもう大学3年生である。就活の波が、目前に迫っている。

仕事について、これまでもいろいろ考えてきた。
さかのぼれば小学生の時は図工の授業で「なりたい仕事」をしている自分の姿を、針金と粘土を使って作った記憶がある。その時は図書館司書になりたかったらしい。割箸で骨組みを作った本棚に、不格好に背骨がゆがんだ想像上の大人の私が、本を棚に戻そうとしているひとコマだ。

中学生の頃は社会の先生になりたかった。3年間ずっと担当だった社会の先生が好きだったからだ。「あんな風になりたい」と、憧れていた。

あれから5年、だろうか。
先の見えない高校時代と浪人時代を経て、今、やりたい仕事など、毛頭ないことに気づく。
やりがいとか、向いているとか、そんなことどうでもよくなっている。
どこかに就職できればそれでいい、生活できればそれでいいのではないか、なんて。

その一方で、やるからにはちゃんとやりたいと思っている自分もいる。
どんな女性像に憧れるか?と聞かれたら、私の中で思い浮かぶのは、
仕事をバリバリこなし、ヒールを履いて都会のビル群を闊歩する、強く美しい女性だ。

でも、思うことがある。「どうして私は”そう”なりたいのか?」と。

最近、本を読んだのだが、その中に、ある姉妹が出てきた。

昔は不良で周りに迷惑ばかりかけ、就職したのち結婚して退社、田舎で暮らす妹。
昔から努力家で優秀で、大学で都会に出、そのまま就職、独身でキャリアを積む姉。

…よく描かれている対比である。もう見慣れてしまった。

大抵の場合は、語り手ないし主人公は姉の方で、結婚している妹は幸せに描かれ、自分は苦しんでいる、という構図である。

そして、ふと思う。
どうしてこの対比なのか、と。

どうしてバリバリキャリアを積んでいる女性は独身で、
どうしてその対比として、結婚や出産をし仕事をしていない女性がいつもいるのだろうか。

私の「なりたい女性像」に戻ってみる。
そして思う。

私がバリキャリ女性になりたいのは、独身であり続けるための理由付けにしたいからなのではないか、と。

以前、友人が「年を取ると偏見が多くなる」と言っていた。
確かにそうだ。21歳で独身でも何も言われないが、40歳で独身なら「何か理由があるはずだ」とか言って、色々勝手に探られる。年齢による偏見に、結婚の有無は強く絡んでいる。

私は、そういう、「結婚していないことによる偏見」から、自分を守りたいから、「仕事ができること」を鎧にしようとしているのではないか。
仕事ができるという事実、誰もが羨むキャリアを持っている事実は、結婚していない理由を「立派な」ものにする。
「彼女は仕事ができるから、結婚しなくても大丈夫なんだよ」、みたいな周りの声が聞こえる。

どうして、独身でいるためにはキャリアを積まなければならないと感じるのだろうか。
どうして、仕事ができれば独身でいても大丈夫だと思えるのだろうか。

独身でいることに「正当な」理由なんていらないはずだ。
仕事もできない上に独身でいたらだめなのだろうか。
好きにしていていいはずだろう。
なのに、「その代わりに」の後に続く何かが必要だと感じるのは、どうしてなのか。

キャリアの代償としての独身なら、正当化できると思っている自分がいる。

そしてこうも思うのだ。
これこそ、自分の中に偏見がある何よりの証拠だ、と。
結局自分もクソみたいな社会の偏見の一部なのだ。

独身で部屋も汚い、家事もできないドラマの主人公は、一歩外に出ればバリキャリウーマンで、大抵そういうドラマのゴールはイケメン社長と突然の出会い、そして最終回には結婚、めでたしめでたし。

年齢とか、結婚とか、仕事とか。

憧れとか。

こうやって、どうにもならなくなっていく。



最後まで読んでいただきありがとうございました。

大屋千風











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