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「そんなことがあったの」

ちょっとショックなことがあった。

詳細は省くけどそれなりに感情が揺らぐようなことで、私にとっては未来が不安になったり、自信が無くなったりするには充分な出来事だった。

それを友達に概要だけ話したらね、友達がただ一言「そんなことがあったの。」って言ってくれた。なんかもうその一言で、涙腺が決壊してしまったよ。自分でもびっくりするくらい。思い出すだけでまた泣けてくる(笑)。

めっちゃ安心したというか。
力が抜けてく感じがしたというか。

この「そんなことがあったの。」の一言の魔力は半端ない。カウンセリングや傾聴をどんなに極めても、この一言を言えるのは「カウンセラー」という立場にある人ではなくて、ただの「友達」や「家族」なんだって思った。


・・・。

ショックなことや心が揺らぐ出来事があった時、人それぞれ色んな対処の仕方を持っているよね。私はまず自分の中で処理しようするというか、まず自分の中で答えを見つけようとする。

なんでこうなった?
何を私に知らせようとしてる?
この感情はどういう類のもの?
それを知ったらどうなる?
全て踏まえて私は次何をしようか?

という答えをとにかく探す。

その過程で感情を言葉にする必要があるなら、仕方ないからその部分も頑張る。それでも自分で答えを見つけられなければ、カウンセラー仲間にセッションをお願いするなり、諦めて長期戦を覚悟する。だいたい整理がついたところで、ブログに書いたりアウトプットすることはある。

・・・これは特にカウンセリング修行を始めてからで、家族や友達にフツーに泣き言を聞いてもらうっていう発想自体が無くなった。


元々そんなに話す方でもなかったと思うけど、それは性格とか育ちとか、色んな要素が絡まってのことだ。正論や行動的な規範をくれる人と、たくさんご縁があった人生だった。弱音を吐くと、

「なんでそうしたの?」
「最初からわかってたことでしょ」
「自分が選んだ道でしょ」
「ーーすれば良かったのにね」
「ーーしてーーすれば?」
「次は頑張れ」

みたいな励ましが返ってくるという。私はこれが本当ーーーに辛かった。でもきっと正論の方が社会的に正しいことで、受け入れられない私の方が人間的にダメなんだと思ってた。自分をめっちゃ卑下してた。

だからちゃんと心の声を聴いてくれるカウンセリングと出会えたことは、確かに私の人生を変えてくれた。

でもさ、やっぱりカウンセリングは未来のためにあるから、それはそれでちょっと体力がいる。

反応、投影、未完了の感情、思考の癖。

そんな無意識を探し出していくんだから、当然「そんなことがあったの。」だけでは終わらない。その先だってめっちゃ大切なんだ。だから心の体力や覚悟が定まらないうちは辛いこともある。


・・・「そんなことがあったの。」で終わらせてくれる、そこにカンセリングとは別の安心感があることを、初めて知った気がするのです。

それはカウンセラーという立場の人がセッションで提供してくれるものではなくて、「友達」や「家族」という人たちが与えてくれる。そのままの言葉じゃなくても、ほんのちょっとした行動や表情、空気感なんかにも、本当はそれが滲んでるものなのだろうな。

目を凝らせば、いくらでも視えるものなんだろう。

だから私もカウンセラーという立場を離れた時は、友達や家族に「そんなことがあったの」って言いたい。自分にも今度からそうやって言う。すごく大切なことだと思うから。

いつも読んでくださりありがとうございます!直近でいただいたサポートは、引っ越し先で使う新しいカーテンと木の食器のために、大切に使わせていただきます(2019年3月末現在)。