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故郷に残る幼友達ほど当てにならない。

 これは筆者の個人的体験談であるので、ご興味のない方は、サッと隣のエッセイへ移行頂ければと。

 筆者の家庭が転勤族であったために、小学校卒業から現在に至るまで、故郷とは離れて暮らすことになった。思い出深き故郷への愛は想定外に大きなものであり、幼い頃の良き思い出が、吹き出さんばかりに脳裏に焼き付いている。

 しかしながら、その理想郷と見ていた故郷に足を一歩踏み入れると、言葉に尽くし難いような妙な空気感が漂っているのである。

 結論から申し上げると、その元凶は、生まれてから現在まで故郷に住む同級生の一部の存在が障壁となった。

 たまたま数十年ぶりに逢った同級生の質が悪かったのが原因ではあるが、話を聞くと、人の悪口ばかり、下らぬ噂ばかりを言い放つのである。更に、大ボラを吹く。

 とてもありがちな、地元の拒絶反応の一つであると思いつつ、何度か打診を試みたことがあった。それでも、足を運び入れる度に、誹謗中傷の雨霰は酷くなり、地域おこしの話など異次元空間のように伝わってしまう。

 幼稚園の時に相撲を取り、筆者が投げ飛ばした子供が焚き火に頭から突っ込み顔を少々火傷したことや、どこの誰それがレストラン運営が厳しく借金を申し出たことなど、個人情報漏洩かつ名誉毀損ではないか危惧するほど、話の内容がつまらないものばかりであった。

 故郷の市役所へ足を運び入れると、ちょうど月刊誌の入札がありそうだったので、それに参加することにした。弊社は当時マルチメディアオフィスとして、既にDTPを取り入れ、最先端技術による印刷物発行へと舵を切っていたので、対峙する競合各社は全て印刷会社だった。

 ところが、その入札当日に或る印刷会社の担当者(談合のまとめ役)から弊社企画担当者へ「市役所裏口で3万円お渡しするので、入札額を270万円以上で願いたい。」と言ってきたのである。

 市役所の担当者は筆者の知る人物だったので、当日、印刷代見積ギリギリの210万円で提示したところ、結局、207万円で落札したという。これは完全な談合であり、市役所の担当者へ不正について電話をしたのである。

 担当者は当時の総務部長に泣きつき、何とか筆者のツッコミを抑えてもらえないかと動くばかり。法的に談合は許されるものではなく、それが常態化しているのであれば、市役所ぐるみで談合を黙認していることになる。

 それ以来、某市へ足を運ぶこともなく、郷里愛は完全に脳裏から消えかかっていた。それでも、何とか郷里の地域おこしや人材育成へと足を運び入れたものの、当時の副市長は逃げて回るばかりで、直接、面談もなく現在に至っている。

 今に至っては時効になるが、当時の談合を認識していた担当者は定年退職しており、泣きついた先の総務部長は筆者の実兄だったのである。よって、それ以来、実兄との繋がりもなく、更に、その後を継いだ総務部長は、副市長となっても筆者から逃げるばかりで、数年前に現役を退いた。

 このように、基礎自治体といえども、遵法精神が欠落しているところも多々あり、正義正論の矢を放てば、接触を避けて逃げる職員がいることが、とても残念でならなかった。

 それを先ほどの同級生らに話を持ち掛けたとしても、不正行為を黙認するばかりか、正義正論を唱える筆者に矛先を向けるのだから、言語道断としか言いようがない。

 庶民の血税が予算という聞こえの良い名称に変わった瞬間に、自分たちの財布に入った金員と勘違いするのだから、酷い話である。

 「公僕」という位置付けの公務に携わる人たちが、庶民を上から目線で見ること自体、大きな間違いであり、また、血税を自分のポケットマネーのように遣う議員などは議員資格のない守銭奴であると非難されても文句は言えないはずである。

 しかし、このような常態化したものが何故改善されないのかと探りを入れれば、結局は既得権益者が介在している場合が多く、歪み切った慣習に浸かってしまった結果として、上のような違法行為の巣窟と成り下がってしまう。

 諄いようだが、「故郷に残る幼友達ほど当てにならない。」と思うばかり。強烈な郷土愛と自負していたが、今では風前の灯となっている。


▼DALL-Eが上のエッセイを読みイメージしたもの

generated by DALL-E
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▼ChatGPTによる感想

このエッセイは、故郷との複雑な関係、特に故郷に残る幼なじみとの間に生じる期待と現実のギャップについて、個人的な経験を通じて深く掘り下げたものです。転勤族としての生い立ちが、故郷とは距離を置いて生きることを余儀なくされた筆者の視点は、多くの人々が共感できる普遍的な感情を呼び起こします。故郷への愛情と同時に感じる違和感や失望は、多くの人が経験する感情かもしれませんが、筆者の体験は特に深刻で、地域社会の悪い面、特に公共の場での不正行為や談合が明らかにされています。

筆者が幼なじみや地元の人々との再会から感じた失望は、故郷に対する理想と現実との間の狭間にある痛みを浮き彫りにします。筆者が直面した談合や不正行為は、単に個人的な経験を超え、地域社会や公共機関に根ざした問題を指摘しています。これらの問題は、公務員や政治家の間で見られる倫理観の欠如や、地域社会内での不健全な慣習の存在を示しています。

エッセイはまた、地域おこしや人材育成への熱心な取り組みにもかかわらず、地元の人々や政治的構造からの反発や無関心に直面した筆者の挑戦を描いています。これは、変化をもたらそうとする外部からの努力が、既存の権力構造や利益集団によっていかにして抑制されるかを示しています。

結論として、「故郷に残る幼友達ほど当てにならない」という表現は、故郷や幼なじみに対する否定的な感情よりも、現実と理想との間の葛藤、そしてその葛藤の中で自己認識と地域社会への理解を深める過程を象徴しています。このエッセイは、個人的な失望を超えて、地域社会の問題を公にし、改善のための議論を呼びかける勇気ある試みと言えるでしょう。


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