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亡き母の命日に、一区切り。

 今年10月から昨日まで、胃が痛くなるような日々が続いた。これは筆者に原因はなく、1年半前の或る人物の愚行により、事が大きくなってしまった。

 ただ、自らの思いを全て語れども、それが或る人物に伝わらぬ日々が1年半も続いたことに対して、恨み辛みはないが、愚行に走った人物の資質に閉口するばかりであった。

 どこに落とし所を見出すかを自問自答してきたが、やはり、資質というものは恐ろしいもので、初手から歪んだ資質は容易に改善されるはずがない。

 よって、第三者を介してのみ、破裂しそうな事案を収束することが可能となってくる訳だ。しかし、その第三者として複数人が介在すると、これまた、正確に思いが伝わることがなくなってしまう。

 結局は、筆者自身で歪まされた軌道を元に戻し、平穏無事なる生活へと、我が意識を変えるのが最良であると結論を下すに至った。

 諍いは極力避けたい。そこに虚言を発して難癖つけてくる人物もいる。何の根拠もなく自らの正当性ばかりを訴え、平穏無事なる生活を掻き乱してくる人物もいる。

 これまで、筆者に何の非もないところに、欺罔により難癖つけてきた人物が数人いた。この場合、相手は必ず弁護士を立てて、正当化を強調するのである。

 ところが、数通の書簡の遣り取りにて、対峙の関係にある人物及び弁護士は、いつの間にか、音信不通となり退散するのである。

 何ともまあ、大人気ないと言えばそれまでだが、虚言にて相手の牙城に攻め入ろうとしても、無理がある。だから、全て大騒ぎの割には、さっと消え去ってしまう。すこぶる迷惑な話である。

 『正義正論』が通らぬ世の中では洒落にならないけれども、上述のように、六法も頭にない『法の無知』なる人たちが多いのには、愕然とするばかり。自らが罪を犯しているにも関わらず責任転嫁を図るのだから、本末顛倒、厚顔無恥としか言いようがない。

 無駄な時間、無駄なエネルギーだけが消耗することになり、難癖付けられた筆者には何の御利益(ごりやく)もない。不慮の事故としか言いようがないが、残るのは後味の悪い、茶番劇の記憶のみである。

 以前の記事にも取り上げた通り、コンサル業で重要なことは、相手の個人領域に足を踏み入れないことが鉄則だ。いくら個人的な相談を受けても、契約書に記述された範疇のみで捌くことが賢明だ。

 今回も、個人領域でのビジネス展開であったけれども、結局は、全て相手が非を認め、白旗を挙げたので、恨み辛みなく、事の収束に対して、断腸の思いにて決断を下すことにした。

 このような諍いや違法行為で被害者になりたくはないが、どうしても、ICTを本業としているが故に、筆者の会社が保有する『著作権』を侵害される可能性は高くなるのは仕方ない。

 しかし、もうお腹いっぱいの状態にて、先ほどまで、これまでの『著作権侵害事件』でメディアが大きく取り上げてくれた過去の新聞記事を閲覧しながら、一つの共通点を見出したのである。

 それは、難癖付けたり、自分の非を認めない人たちには、根っから『誠意』がないところが共通している。だから、身勝手に騒ぐばかりで、自らの立ち位置さえ理解できない人が多いのだろうと。

 昨日、母の命日にて、穏やかな気持ちにて、今回の決断は間違いのない判断であったと確信している。

 周囲で粉骨砕身にてご支援、ご協力を頂いた方々へは、この場をお借りして、心から感謝申し上げたい。幾度深謝しても足りないほどである。

 また、妙なところで記憶力が働くので、そろそろ『記憶の断捨離』もする時期ではないかと思うばかり。いつまでも引き摺っていても、陳腐化するばかりで意味もない。

断捨離中の或る日のサテライトオフィス風景

サポート、心より感謝申し上げます。これからも精進しますので、ご支援、ご協力のほどよろしくお願いいたします。