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震災復興と境目のない「ひとまとまり」を考える

2021年3月に、東日本大震災からちょうど10年を数える。

仕事柄、今まで震災復興そのもの、あるいは震災復興と音楽という文脈に関わることが複数あった。2014年ころからずっと、なにがしかに関わらせていただいている。被災地に赴いた数は1年に複数回のはずで、10回以上はどこかに足を運んでいる形だ。

今年は特に、10年を迎えるからだと思う。震災復興について多面的に深く考える機会が複数ある。

そして私には何となく、後ろめたさがある。いつも名目上「調査側」「(団体の)サポート側」として入っていること、現地に行っても、そこにとどまって地域や人、一か所にフォーカスして向き合うわけではない。十数回というのも、多くない。寧ろ肌で感じ、知るためには少ない。そして行く度にそこで、震災直後から地域に冷静な頭脳、温かい心(Cool-headed, Warm-hearted)を持って向き合っている人々に出会い、心を揺り動かされる。私はこんな風に今生きているのだろうかと、その都度自問する機会をもらう。

ここ1ヶ月半ほど、ヒアリングをして強く動かされるがあまり、言葉を失ったようにも思った。自分自身の言葉が空っぽになったような気持ち。ヒアリングをする、書き留める、文字起こしをする、そういった一連の流れができても、自分の身体をとおして、自分の言葉を呼び覚ますのが難しいような状況。ものすごく多くのことを感じて、結局何も感じていないのではないかとさえ思うような。

そんな状況が続く中、鷲田清一さんの本「素手のふるまい」で、「コムニタス」という言葉を知った。本文中からその定義を引用すると

ターナーがいうコムニタスとは、災害時にかぎらずたとえば民族儀礼や宗教運動、あるいはヒッピーのコミューンなどで見られる同質的で平等な、そしてときにたがいに匿名のまま私的な財産も放棄しあう、「一致」(unison)と「親交」(communion)に満たされた集合体のこと

とされる。私は後ろめたさを感じながらも時折、被災地の人々からとてつもなくフラットで心地の良い印象を受ける。そして、(当初は)支援側で入ってきた団体と被災地現地でずっと暮らす人たちの境界のなさに驚かされることも多い(長く続けている、うまくいっている団体ほど滑らかだ)。

内発的に生まれる自らの後ろめたさと、外発的に受け取る不思議なまでの境界線のなさの違いは、コムニタスの瞬間がその人に訪れたかどうかに依存しているのかもしれないと思った。

鷲田さんの本では、仙台で被災した方が、被災直後にみんなが街に出てきて、「まちが突然、開いた」と語ったという箇所がある。地位や職業、貧富も何も関係なく、一旦社会秩序が解放されて平等な境遇に置かれている状況を描いている。

震災を通して(たとえ直後でなくても)コムニタス、という感覚が少しでも起こるとすれば、私が誰であるかどうかを、当時被災の経験がある人はそこまで気にしていないのではないか。誰であるか、どういう役割であるかよりも、今ここでどう振舞うのかを見られている気もする。言い換えると相手がコムニタスの共有が可能か、敏感に察知する人が多いのではないか。

震災という事象をとおして、私は「よそ者」的な肩書きを持ち、それを受け入れつつ自分が誰であるかどうかを気にして、何者でもないように振る舞おうとする。境界を本当は引きたくないけれども、引かないといけないのではないかと思っている。ただそこにいたい、何かを伝えたいという気持ちはある。それが自らの後ろめたさの原因であり、相手が境界を持たない要因なのだとも思う。

直接被災していない私はコムニタスを経験したことがあるだろうか。

正直ないのかもしれないと思う。

ただ、自分の中で秩序が解き放たれ、互いに匿名なまま、何者かもわからないまま、同じ場で自分を放棄し、同じものを共有するということを考えると、音楽がそうだ。あるいは、舞踊もそうだと思う。

演奏側も、鑑賞側も、同じ音楽を紡ぐ。同じ場で自由にダンスする時もそうだ。何かを伝え、共有したいという想いが互いにあれば、どんな後ろめたさがあっても、そこに共にいたいという想いさえあれば、そこには境目のない「ひとまとまり」が生まれる。その場に音楽やダンスという共通の財があると、誰が誰であるかを、気にするという意識さえ起きない。

そういった意味で、震災復興における音楽活動というのは、コムニタス的瞬間を受け取った人がおり、共にいたいという想いが重なるということで、二重の意味で「ひとまとまり」を生み出すのではないかと思う。

震災復興と、震災復興における音楽と、境目のない「ひとまとまり」。これには今のコロナ禍の状況でも、何か考えられるヒントがあるはずである。これからも考え続けていきたい。

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