見出し画像

ただ生きるように、ただ創る

文章を読むと、その人がわかる。小説でも、エッセイでも、詩でも。その人の息遣い、語り口だけでない、生い立ちや生きざまが浮き上がって揺らぎ立つように現れる。

だからそこには気持ちの良い文章も、気持ちの悪い文章もないと、私は思う。それぞれの個性であり、生き方であり、全ての実存であるように思う。本棚に並ぶ背表紙は、そのままそれぞれの作者の各時代のポートレートでもあるのだ。

音楽にも、同じことを思う。構成に、響きに、強弱に、その作曲家のその当時の全てが映される。何の漏れもない、全て。誰かが何かを創るということは、そういうことなのだと考えている。

創作意欲というものは、いかなるものなのかわからない。人は創らなくても生きられる。創らなくては生きられない人が、創るのかもしれない。例えば私は今、妊娠中で臨月である。今、私は創らなくても生きられる。ぼんやりと、受動的に生きている気がする。妊娠が関係するのかは知らないけれど、何かを創ろうという意欲がまるでない。文章を書こう、絵を描こう、曲を創ろうという行為が、靄がかった一歩遠いところにあるように、手が届かない。

しかしこうしてちょっと立ち止まった時に。三島を読み、太宰を読み、北原白秋を開いてちょっとパソコンを覗いたときに。今のこのぼんやりとした自分の想いを書きたいと思うことになる。網膜に映される一文一文が体内を巡り、表皮に細波を立てて、私に何かを残させようとしているのかもしれない。誰のためでもなく、生まれてくる子のためでもなく。自分のためなのかもわからない。目的があるわけではない。ただ、書きたい、と思う。

この行為が、つまり生きているということとほぼ同義なのかもしれないとも思う。意欲というものではない。ただ生きる、ということのように、ただ創る、ということなのかもしれない。

読んだ方が、自分らしく生きる勇気を得られるよう、文章を書き続けます。 サポートいただければ、とても嬉しいです。 いただきましたサポートは、執筆活動、子どもたちへの芸術文化の機会提供、文化・環境保全の支援等に使わせていただきます。