僕が批評の才能に目覚めたときの話
ヤドキング似の師匠
『ポケモンSV』の批評を書く前にふとケジメを付けたくなった。
僕のケジメとは、自分のルーツを明かすこと、つまり、批評を教わった師のことだ。
以前書いたように僕の批評の師はふたりいる。簡単にいうと、ひとりからは批評の倫理を、もうひとりからは芸術鑑賞と教養を学び、そして今の僕は後者を前者から反省的に捉えることで批評の方法論を言葉にしている、といえそうだ。
曖昧な物謂いなのは、僕がそう意図して歩んだからではなく、自分の欲望と実践を振り返ったら後者の師の呪いを祓う「父殺し」に命を掛けてきたように映るからだ。それが方法論に向かったのはわりと長いあいだ哲学思想を勉強してきたからだろう。
僕のこれまでの、そしてこれからの書き物はすべて師の影響力を祓う悪戦苦闘が基礎にある。創造的な歩みとは概して先人の克服だけども。
僕がこの話題を避けてきたのにはいくつか理由がある。
ひとつは、単純にひとりの師のことを記憶の奥底に沈めようとしてきたからだ。思い出すのも語るのも苦痛で、僕にとっては悪霊のようにかたときも離れずそのまなざしを感じ続けてきたため、今もどう語っていいかわからない。
もうひとつは、逆説的だが僕はこの人物について書き続けてきたし、この人物に向けて書き続けてきたせいであえて書く理由(気持ち)がなかったからだ。今も存命かわからないが、それぐらい影響力が強く、僕自身しか知りえないがそれぐらい彼の痕跡を消すことに今も苦心している。
そんなに嫌なら書かなきゃいいじゃないか、とあなたも言いたくなってきただろう。
それもそうだが、僕が師のことにふれないといかに批評(物事の良し悪しの見極め)を学べるかという公益性のあるテーマを書けないし、自分のルーツを隠す人間は信用できないという師の教えに苦しみ続けるのもかなり癪に障る。
それになりより、師を語るには今がいちばん良いタイミングなのだ。この機を逃すと、下手したらもう3年は季節が巡らないと師を語る気になれない概算が高い。ゲームフリークがポケモン新作をリリースし、僕がプレイし、その出来栄えにある程度納得して楽しめている今だからこそ最高にハイな気分で彼を語れる、かもしれない。
というわけで、馬鹿みたいな話だが、僕が語りえない師をなお語るためにあるポケモンから語りはじめることを許してほしい。
そう、ヤドキングである。
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