ゲーム批評に僕が身を投じた苦い理由
門外漢がなぜゲーム批評に身投げしたか?
ゲーム批評に今でこそ熱を上げ、書く用・勉強用・趣味用の作品の優先順位に日々苦しみながら日本国内ではまだ陽の目をみていないリリース情報に眼を光らせている僕は、何も根っからのゲーム好きだったわけではない。
デジタルゲームに興味をもちはじめたのは多分『マインクラフト』が世間でも流行りはじめた2014年頃で、本格的に入れ込んだのは僕の個人史的には多くのものを喪い、ゲーム業界的には『ホライゾン・ゼロ・ドーン』がリリースされ『オーバーウォッチ』が人気絶頂を極めようとしていた2017年頃だろう。
ゲーム批評を真正面からはじめて書いたのは昨年末の『ディスコ・エリジウム』がきっかけだった。
振り返れば、ちょっとの興味、ちょっとの観測、ちょっとの思惑から随分遠い場所へ来てしまったものだ。
とはいえ、今の僕の関心と生活の中心にはまさしくデジタルゲームが居座ってはいるものの、ゲームがそこまで好きか?と問われるとそれも何か違う気がする。
好きか嫌いかでいえばもちろんイエスだが、心の底から躊躇なく頷けるほどその愛着は骨の随までには染み込んでなく、自分のバックボーンはあくまで映画であり文芸であり哲学であることを否応なく痛感させられる。
だからこそ、以前からの旧知の友人にはなぜ人文系学問を捨ててまでデジタルゲームに走ったかは謎だろうし、僕のゲーム批評に最近興味をもってくださった方はどういう経緯と背景をもつ人物なのか不明なままだろう。
なにより、ゲームの世界に足を踏み入れた狙いと理屈はいくらでも説明できるが、僕の場合にはその暗い情熱の裏にはある苦い記憶があるため、正直な気持ちとしてはあまり書きたくないし、話したくないしで、赤裸々さと希少性の観点からはこの移住の理由には相応の価値があるはずだ。
そう、ゲーム批評に僕が身を投じた理由を説明するには学生時代のある苦い記憶を掘り返し、僕が心の奥底でいったい何の亡霊と闘っているかを明かさなくてはならない。
そのためにはまず、僕のいわば「批評の師」について語るところからはじめよう。
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