許しとは結局自分がどう生きたいか?に行き着くためのもの
自分とは決定的に価値観の違う人というのは世の中に存在する。
私は自分のことを「へんなところの多い人」と思っているので、世界の中で価値観が合う人のほうが少ないんじゃないかと思っている。まぁ、世界中のすべての人とあって話をしたことがないのであくまでも憶測だけど…。
でも、価値観の違いにもグラデーションがあって「へー、そんな考え方もあるのか」「そうだよね、それを大事に思ってるんだよね」と感じることもあれば、「いやー、それはあまりにも邪悪でちょっと」と思うこともある。
(他にも「え?」と驚くような不思議な価値観を披露されることもあるけれど、その類のものは観察した上でたいていは「へー、そんな考え方もあるのね」系に含まれることが多い)
このグラデーションの違いは何かと考えていくと自分が「これだけは生きる上で大切にしたい」と強く思っていることに反する価値観であればあるほど受け入れ難いと強く感じるのだ。
そういう自分の生きる指針となる大事なものは誰にでもあって、当たり前だけど、私が受け入れ難い価値観を持つ人にとっても、同じようにある。そして、その人にとって「これだけは生きる上で大事」と思うことが、私にとっては邪悪だなぁと感じられることだったりする。
邪悪だなぁと思うほどの人にはめったに会わないけれど、でも、そういう人、そういう場というものはあって、ごくまれーーーに遭遇してしまうことがある。
で、これまたやっかいなのだけど、表面上、使う言葉が一緒だったりするので、同じ価値観のもとに、同じ言語を使っていると錯覚してしまうのだ。
だけど、よーくよーく話をして観察していると、大事なものが決定的に違っていたりする。
大事なものが違うということは、作り上げる世界、みている世界が違うということだ。例えば、死んでも魂はあると信じる人と、死んだら終わりと信じる人では世界そのものが違う。
一方には当たり前のように「ある」ものが、もう一方には当たり前のように「ない」。空気のある星とない星では星の成り立ちがまったく違うようなものだ。
そんふうに決定的に価値観が違う人に出会った時、価値観の違う場に関わってしまった時、それを「空気がないなんておかしい」と怒ってみたところで仕方がないし
「空気があるふりをして、本当はなかったじゃないか、最低!」と恨んだり憎んだりしてもしょうがない。
もちろん、「あなたおかしいよ」と正したくなったり、「恨んでやるー」と言いたくなることも「その邪悪さ許すまじ」と思ってしまうこともある。人間だもの、「むーん」とはなる。
けれども、それをいつまでも握りしめて自分を濁らせることの方が嫌なのだ。濁りとは滞りだ。濁ると自分の中が循環しなくなる。私にとってはそのことが何よりも自分自身を傷つける。
じゃ、どうするか?といえば許すしかない。
容易なことではないけれど、「それ」が存在することを許すのだ。
「それ」とは「その人」というよりも「そういうエネルギー」だ。
私にとっては耐え難く邪悪なエネルギーの存在を許す。
なぜならば、私もまたそのエネルギーを内包するものの一人だからだ。
私の中にもその邪悪さはある。だからこそ「それ邪悪だわ」と思うのだから。
知らないものはよくも悪くも感じられないのだ。
許すとは相手や出来事を通して自分を許すということだ
邪悪と思うエネルギーを内包する自分を許す。
何かを恨み、何かを妬み自分を濁らさる生き方を選ぶこともできるよ。そういう選択もあるよ。けれども、自分はそれを望んでいるのか?と問いかける。
正しい間違いではなく、ただただ、自分はそれが心地よいのか?
そこに自分は幸せを感じるのか?を問う。
答えがNOなのなら、では、どう生きたいのか?
許しとは結局、自分がどう生きたいのか?
そこに行き着くためのものだ。許せないことが心にある限り、「どう生きたいのか?」の答えはゆがんだものになる。そのゆがんだ答えに振り回されて生きにくくなるのは自分自身なのだ。
だからこそ、違う価値観に触れた時、許すことに立ち返ることのできる心と身体と環境を粘り強く作り上げていく。一生、コツコツ、繰り返し、何度でも。
その積み重ねが自分の住む世界を変えていく。これでいいというゴールはないし、これが正解という教科書もない。
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