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それでも生きていく意味。

前回のnoteで「ティク・ナット・ハンの言うように何ものにも害をなさないように生きるとしたら、もう何も食べないのが一番ベストなのでは?」と書きましたが、ぶっちゃけ、仮に食べなくても生活するだけで自分の気付かないところでいろいろな害をなしてしまうかも知れず、もういっそじっとして何もしないのが良いのかも?そんなふうにも思えてきます。

以前別のnoteで書いたAKIRAさんという方は若い頃から世界中を旅している人で、(わたしの朧げな記憶で申し訳ないのですが)あるときアルゼンチンの紳士とたまたま同じ船に乗り合わせたとき、彼のお嬢さんが自殺したお話を伺ったそうです。「自分はなんで生きているのかわからない、それなのに自分が生きるために他の生き物の命を奪ってしまうのが辛い」そう言って、彼女は自分の命を絶ってしまったのだとか。

生きないほうが他のものに害をなさない、極論ですけど確かにそうです。

このお話のことを考えるとき、ノアの方舟のお話がいつも思い起こされるのです。つまり、神様は人間を造ったが、そのあまりの堕落ぶりに腹を立て、正しい生き方をしているノアの家族と動物のつがいだけ残して、あとは洪水で流してしまったというアレです。

キリスト教徒ではないので詳しい内容を知らないですし、間違った解釈をしている可能性はありますが、わたしが子どもの頃よく思ったのが「なぜ神はそんな酷いことをせず、ハナから罪を犯さない人間を造らなかったのか?」ということ。。

漫画の話になりますが『風の谷のナウシカ』でも似たようなお話が描かれていて、ナウシカがシュワの奥地の墓所に辿り着いたとき、彼女たちが元々滅ぶべき存在だと聞かされ、更に世界が浄化された暁に新たに生まれるべく造られた「罪を犯さない人々」の卵を発見します。結局彼女はそれらを燃やしてしまうのだけど…


臨死体験した人で「この世は夢のようで、むしろあちらの世界の方が現実のようだった」と仰る方は結構いらっしゃいます。どの動画で見たのか思い出せませんが、こちらの世界を昔の白黒テレビだとすると、あちらの世界は最新型のテレビのように鮮明だったと仰っていた方も。

もし夢ならは、実際に傷付く人はいないのだから何があっても問題ないのかも知れない、そんなことも思います。映画で殺人事件が起きても、実際には誰も死んでいないのと同じです。

それでも臨死体験者の方々がベジタリアンになったり、他人や生きとし生けるもの、更には地球に対して思いやりを持ちましょうと言うのは、自分の行動の動機が大切だと言いたいのではないかと思うのです。

ステージⅣのガンから生還されたアニータ・ムアジャーニさんもよくこう仰っています。「愛ならどうするか。そう考えて行動しましょう」と。

あちらに行った方は「圧倒的な愛に包まれ、平和で美しい世界だった」と、大体そのような報告をされます。つまりあちらは完璧なんです。荒くれ者だったダニオン・ブリンクリーさんも、罰として地獄とかに堕とされるのではなく、神聖な存在に迎え入れられているんです。


完璧な世界から、わざわざ不完全な世界へやって来て今更何を学ぶと言うんでしょうか?これに関してはいろいろな方が様々なことを仰っていて、どれが正解か不正解かというのは正直わたしにもわかりません。

ただ、臨死体験者のエイミー・コールさんがあちらの世界で出会ったメンターも言ってましたが、物質世界が霊的世界より格下なのではなく、物質世界でなければ体験出来ないことがあって、全ては精緻な機械仕掛けの歯車みたいに相互に影響を与えているのではないかと思います…

そう考えると一概にあちらの世界が「完璧」なのではなくて、全てあってこそ、なのかもしれない…


なんだか相変わらず話が迷走して申し訳ないのですが、つまり、この世は夢であり、神のリーラだから何があっても大丈夫。ただ、わたしたちは本来繋がっているのだから、自分自身に対しても、他のものに対しても、愛を持って生きていこう。これが現状わたしの辿り着いた終着点という感じです。。