【文学論】純文学について考える
YouTubeでラランドの西田さんが「純文学ってなに?」というテーマで喋っている動画を見た。
わたしはラランドが好きで動画をよく見るんだけど、西田さんの個人チャンネルは見たことがなかった。YouTubeのアルゴリズムすげえ、とか言いながら、どうしても押しちゃう。
「純文学」というジャンルがあって、自分が「純文学」を好むことはなんとなく知っていて、でもそのジャンル分けみたいなものをちゃんと考えたことはあんまりなかった。
今まで何回か「純文学ってなんなの?」って聞かれたことがあったけど、「あー、芥川賞に分類される作品よ。直木賞じゃなくて。」とかって答えていた。自分で納得できる答えは持っていなかった。
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まず、動画で学んだ内容。
・「純文学」は、「大衆文学」と比較する形で語られることが多いらしい。
→うんうん、これはなんとなく分かる。
・「純文学」は、テクストってのが与えられて、後は何を感じても自由。「大衆文学」は、一個の感情とか感想に集約されるように書かれている。
→私ここでおったまげる。すごく分かる。そうそう、おもんない小説ってのは、ここで読者が「悲しくなる」とか「びっくりする」とか、そういうのが想定されているんよ。
・芥川は「筋の面白さは小説の芸術的価値とは関係しない」と言い、谷崎潤一郎は「筋の面白さこそが小説という形式の特権である」と言ったらしい。ニシダは谷崎に共感してるらしい。
→これは面白い対比で、ぜひ全容を知りたいけど、わたしはパッと聞き、芥川派かも。
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ここで、私が思ったこと。
わたしが好きな小説は「体を通っていく感覚」があるな。そんで、その「体を通っていく感覚」が強いほど、本の内容は「経験」になって、そこで抱いた感情は「記憶」になる。
わたしは、好きな小説/いい小説かどうかを見極める一つの方法として、本の内容を思い出すときに「一人称視点で思い出すか、三人称視点で思い出すか」ってのがあって、これはゲームのFPSかTPSか、みたいな、そういうイメージ。
小説の内容を思い出すときに「あんなこと書いてあったな」ではなく、「あ、あんなことあったな」って思い出してしまう小説は、まあ私にとって村上春樹がそれなんだけど、完全に自分の「経験・記憶」になっていて、いい小説だな、上手だな、好きだな、って思う。
こういうことを、わたしは「体を通り抜けた」と表現するみたい。
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ネットで「純文学」の作品を調べてみた。
ここまで名前があがったような作家(芥川、谷崎潤一郎、村上春樹)が純文学なのは知っていたけど、『蹴りたい背中』の綿谷りささんとか、『コンビニ人間』の村田沙耶香さんなんかが出てきて、わたしは「あーあの、読んでて心とか手足が痛くなる小説か」と思う。
ちなみに、読んでて心とか手足が痛くなる小説家ランキング1位の小川洋子さん(←すごく褒めてる、ちなみに、めっちゃ好き。)も、さすがに純文学らしい。
あとは遠藤周作の『海と毒薬』も純文学だと知り、高校生のときに、すごく深刻な顔をしながら読んだのを思い出す。『海と毒薬』はすごかったな。たしか、戦時中の人体実験についての告白を、視点が切り替わりながら何人もの人がしていく話で。見習いの医者、看護師、ベテランの医者みたいな。だからちょっとミステリーみもあるというか、構成的には、ちょっと伊坂幸太郎みも感じる?
私いまだに、暗い廊下から病室(実験室?)を覗く感覚を、自分のものとして持っているもん。そっかー、たしかにこれは、純文学だ〜と思う。
それじゃ、わたしが最近ハマっている夏目漱石は純文学なのか?と思って、調べてみたら、(まあそりゃあ、やはり、みたいなところはあるけど)純文学、と出てきた。
ここで、自分が「ふ〜よかった〜」と思っていることに気がつく。あーわたしは「純文学」というものをちょっと高尚に思っていて、それでやっぱり自分が「高尚なもの」を好きだと感じることに喜びを覚えているんだな、なんて考える。まあでも、これくらいは仕方ない。多分だけど、「小説」というジャンルでは、わたしはずいぶん自由だ。「世の中の評価」と「自分の面白い」を、ずいぶん切り離して考えられている。だから大丈夫。
ちなみに漱石は、昨年末に、本当に久しぶりに読んで、多分、高校あたりで『こころ』を読んだぶりで、強い衝撃を受けた。びっくりするくらい読みやすくて、文章が体にすっと入ってきた。天然水かよって思った。
読みやすさの理由はまだよく分からなくて、わたしがパッと思いつくところだと「言葉の柔らかさ」で、漢字とひらがなの割合とか、言葉選びの分かりやすさとか、文章構成と文章の長さとか、そういうのしか、まだ言葉にできない。あとは今日の流れだと「筋が面白い」んだと思う、多分。なんで漱石の作品は、あんなに感情が瑞々しいのだろうね、分からない。
それで、近ごろ現代小説を読んでも「なんか違う」と思うことがとても多くて、(もちろん村上春樹とか小川洋子はずっと好きだけど)「うー…ストーリーは面白いのかもしれないけど、これは…」という感じで、読めないものが増えたの。
なんというか、文章が流れなくて、道に大きな石ころがたくさんあって、つまずいちゃう、みたいな感じ。
それで、私はここ最近ちょっと敏感すぎるだけかもしれないとは思いながらも、新規開拓が難しくなってきた可能性を感じていたので、漱石に出会ったときは超嬉しかったな、流れた!スムーズ!と。
ちなみにそこから最近は、漱石らへんの時代の人ばっかり読んでて、しっかり面白くて「あーなんだ、ブームが変わっただけか」と安心しています。あの時代の人らが書くものは、なんか重みがあっていいんだよね、滑らないで読めるというか。
まあ、今わたしが求めている面白さがこのあたりってことですかね。それできっと、「このあたり」が純文学の本流みたいなとこなのかなって思ってる。
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なんかちょっと理解したぞ。
自分の中では「純文学」とは「深くて重めな面白さのある小説」って、それだけですが、
今のところ、説明文として一番しっくりきてるのは、ニシダの「純文学は何を感じても自由。一方で、大衆文学は、一個の感情とか感想に集約されるように書かれている。」ってのかな。
引越しがひと段落したら、ニシダが書いた小説も、読んでみようかなあ〜!!
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