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「女性って〜だよね」とか言われると、どうしても相手を論破しにいってしまう

またやってしまった。相手のジェンダー観に過剰に反応してしまった。言葉の背景や相手の前提を想像せずに、短絡的に「そのジェンダー観はあまりにも意識が低いのではないか?」的な詰めかたをしてしまった。

自分の言動をコントロールできなくなってしまう

私はわりと社会のマジョリティー的思考(「当たり前」や「普通」)に対して疑問を持ちやすい傾向にあって、とくにジェンダー論に関しては長いこと考え続けて一種の「思想」みたいなものがある。

社会の動きについて自分なりの考えを持つのは、社会の「当事者」として非常に重要なことだと思う。でも最近、外部的な反応が過度なんじゃないかと思い始めた。

まわりくどい日本語を使っていますが、簡単に言うと、「ジェンダーまわりにたくさんの地雷があって、自分の『正しい』を前面に出して他人を攻撃してしまっているのではないか?」ということだ。

たとえば「女性は〇〇であるべきだ」とか「男の人って〇〇だよね〜」とか「〇〇が女性の幸せだ」のような、性別を主語にした発言に敏感に反応する。とくに「女性」が主語のもので「決めつけ」と感じる発言への反応が大きい。

このような発言に触れると、相手の属性や関係性に限らず、自分でもコントロールできないほどの勢いで反論してしまう。それが初対面の場であっても、立場が上の人であっても、同性であっても、がっつり詰めてしまうというか、いわゆる論破みたいなことをはじめてしまう

もちろん「不当な(差別的な)発言だ」とか「失礼だ」と感じたら、それを指摘して「自分はこう思う」とか「〜と受け取ってしまうから、そのように表現しないでほしい」と伝えることは自分のアイデンティティを守るために重要なことだと思う。

問題は自分が「正しい」一方で、相手は「間違っている・何も考えていない」という前提で話してしまうことと、それが自分のコントロール外の感情によって行われてしまうことだと思う。

価値観は「正しい」のではなく「この時代においては説得的だ」なのでは

高校時代から仲の良い友達から「ちいむって、令和のリベラル正統派って感じだよね」と言われたことがある。

面白くて的確な表現だと感じたのだけれど、これは、私の「価値観」が一つ前の時代の「普通」に抵抗した結果得られたものであって、それは社会として収束しつつある新しい価値観(=令和のリベラル)と大きなところで一致しているよね、という意味だと理解している。

そして「正統派」というのがポイントで、わたしの「価値観」はある程度冷静だしある程度説得的だという評価を受けがちである。しかしそこが「自分は正しい」を加速させている気がする。

価値観というのは「価値」の見方のことをいう。ある時代において新しく生まれる価値観というのは、多くの人が一つ前の時代の「価値観」に感じていたネガティブな感情の共通項から生まれる。つまり、ある属性の人に対して不合理だと感じる取り扱い(=差別)がされていたとしたら、次の時代でその属性の人たちの「価値観」の出発点は似たような経験から生まれる。つまり「価値観」が結果として似たものになる。

たしかに、一つ前の時代に苦しんだ属性の人たちがいて、共通項として括られる不合理な扱い(差別)を変えるための言動や抵抗は、個人が幸せに生きるために必要なものだ。そしてきっと、社会が腐らないためにも必要なものだ。

だからきっと「令和リベラル」の走りは「説得的なもの」だし、この時代の人たちが必要としている変化なんだと思う。でもそれは決して「正しい」わけではない。

そもそも価値観に「正しい」という概念はない。(と思う。)

べつに「社会に問題がある」と結論付けてもいい(一部はそう結論付くと思う)し、自分の意見を伝えたり自衛する必要はあるけれども、それは自分の意見が「正しい」ことを意味しないし、他人を攻撃する理由にはならない。

今の自分に必要なもの

やはり「価値観」というのは「価値」の見方の変遷でしかないと、冷静に俯瞰することが今の自分に必要なんじゃないかと思った。

それから、なぜあそこまで「攻撃された」とか「見下してきている」と感じるのだろう。そこから生まれる防衛本能がアン・コントロール状態を作っているんだろうけど、なぜなのかなぁ。これはすごく悲しいことだけれど、わたしは無意識に「自分の性別(女であること)は弱みであり、劣性だ」と捉えてしまっているんじゃないかな。本当に悲しいことだけど。

自分がなぜ過剰に反応してしまうのかを丁寧に紐解いていきたいなぁ。

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