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髪を伸ばすことは、思い出を携えて生きるということ。

幼い頃、私はとても美しい髪を持っていた。腰の辺りまで伸びた、しなやかで艶がある黒い髪。

朝起きたらコーンフレークを食べる。そして幼稚園の制服に着替え、母親が私の長くて美しい髪を丁寧に結ってくれる。ピンクや黄色のまあるい飾りがついた、カラフルなヘアゴムで。

私は髪の毛がそうあるべきだと思っていた。朝起きて絡まることも、シャンプーハットを被るとカッパのようになることも、汗でじっとりと首筋に張り付くことも、全てがそうあるべきだと思っていた。

ところが小学校に上がった頃、私の長く美しい髪の毛は消えてしまった。肩の辺りでぱしっと切り揃えられ、周りからは「お母さんそっくりね」と言われるようになった。

その髪の毛がいつ消えてしまったのかを、どうしても思い出せない。身体の一部が分離されたというのに、その記憶は曖昧なままだ。切り落とされた髪の毛を見た気持ちも、妙に軽くなってしまった頭のことも。

首筋にはもう、髪の毛は張り付かない。


朝起きたらコーンフレークを食べる。母親が前日に選んだ洋服に着替える。忘れずに名札を付ける。寝癖のついた髪を、櫛でえいやっと梳かす。ランドセルを背負ったら、勢いよく家を飛び出す。

もうカラフルなヘアゴムで髪を結うことは、なくなった。小学生になった私に母は「時間をかけていられない」と思ったのだろうか。朝は自分で髪を梳かし、夜は自分で乾かす。身の回りのことは全て、自分でやるようになった。


時々、気まぐれで髪をバッサリと切る。肩まで伸びたら、思いっきり切る。その度に「あれ、髪切った?」「似合うね」と周囲から言われる。

髪を切った次の日、学校に行くのが少しだけ恥ずかしい。何も言われなくても、少しだけ恥ずかしい。髪を切るというのはいつになっても、少しだけ恥ずかしい。


バッサリ切ろうと思った時のことは、全部覚えている。

好きな人の好みがショートヘアと知った時、受験に気合を入れた時、なんとなく気まぐれだった時、新しい人生を歩もうと思った時。

全て覚えているし、美容室の床に散らばった決意の残骸も覚えている。小学生になった頃、いつの間にか髪がなくなった時を除いては。


今、髪を伸ばしている。去年バッサリ切った時、色んな人から「誰だかわからなかった」とびっくりされて、なんだか気持ちよかった。

手軽に快感を味わいたい時、散髪は最適だ。なんの躊躇いもなく今まで髪を切っていたけれど、髪は私の分身でもあると気づいたのはその後だった。


髪は、1年に12cm伸びるらしい。

3年前の冬、あの人が触れた髪はもうない。若さゆえ思い切って脱色した髪も、そこに染めたコスモス色も、涙で濡らした毛先も、もうない。

髪を伸ばすことは、思い出を携えて生きるということ。

来年の今頃、どこまで伸びているだろうか。

時々うっかり、パスタと一緒に口に含んでしまう毛先は、痛むことなく私の側にいてくれるだろうか。


少しだけ伸びてきた髪の毛が、首筋に張り付いている。もうすぐ夏。


2021.05.29 匙

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