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香水よりも柔軟剤の方が、あなたをずっと強く感じられる。

誰かが言った。

「金木犀の季節だね」

金木犀の香りは、不思議だ。一瞬で、人々の心を切なくできる。金木犀の匂いが鼻をかすめると、私は刹那、寂しくなる。しかしその後すぐに、嬉しくもなる。

どうして、こんなに不思議な香りがするのだろう。


金木犀の香りはいつだって、心に秋を運んできてくれる。暑さが和らぎ、秋の気配にワクワクしていても、次第にその「秋めいた空気」に身体が慣れてしまう。

すっかり慣れ切った頃に、金木犀は「ほうら、思い出してごらん」と言わんばかりに、秋が凝縮された香りを運んでくる。

「小さい秋見つけた」と思うのはいつも、この香りとすれ違った時だ。


しかし近頃の私は、金木犀の香りを嗅いでも、寂しい気持ちにはならなくなった。なぜか。それは、金木犀の香水を手に入れてしまったから。

私が望めば、世界はいつだって、金木犀の季節になるのだ。


流行りの「その香水のせいだよ〜」なんてフレーズがあちらこちらで聴こえてくるが、君を思い出すのはいつだって香水、とは限らない。

私がかつて時間を共にした恋人たちは、香水をつけていたかもしれないが、その香りよりも、さらに強い香りを身に付けていた。タバコだ。私と彼らの過ごしてきた時間はいつも、タバコの煙に包まれている。


出会いと別れを繰り返して、今は、最愛のパートナーと共に暮らしている。

はじめて彼の胸に飛び込んだ時、その香りの甘さにクラクラしたのを、今でもよく覚えている。タバコの匂いがしなかったのは、彼がはじめてだ。

彼の匂いが好きだった。付き合いたての頃は、彼の匂いがふと鼻をかすめる度に「彼がいる」とドキドキしたのを覚えている。隣にいる彼の姿を目に入れるより、ずっと強いドキドキだった。


こんな出来事があった。

ある日、一人で地下鉄に乗っていた。乗り降りのあまり多くない駅で、電車が止まり、私の横に誰かが座った。

その匂いは紛れもなく、彼だった。

「え!」と胸が高鳴るのを確かに感じ、慌てて顔を上げると、そこには知らない女性がいた。穏やかそうで、感じのいい中年の女性だった。彼女のブラウスが揺れる度、あの見慣れた甘い香りが、鼻をかすめる。

私はガッカリすると同時に、嬉しくも思った。彼のあの匂いは、香水ではなく、柔軟剤の匂いだったらしい。香水じゃないんだ。そうなんだ。へえ、そうなんだ!

私には、香水よりも柔軟剤の匂いの方が、その人の「生活の一部」だと思えて仕方ない。慌てて出かける前にシュッと吹きかけるソレよりも、家事の中に取り込まれた匂いの方が、その人の暮らしを想像させるから好きだ。


それからしばらくして、彼と一緒に暮らすことになった。はじめて迎えた週末の朝、洗濯機にぽいぽいと二人の洋服を投げ入れる。洗剤を入れ、柔軟剤を入れた。その瞬間、私と洗濯機の周りに、あのどうしようもなく愛おしい匂いが立ち込める。

胸がきゅうっと締め付けられた。嬉しかった。会えない夜、寂しさと一緒に何度も思い出した彼の匂いの正体を、今、私は手に入れてしまった。なんてことない柔軟剤が、私には、この世界の秘密を閉じ込めた「魔法の液体」に思えた。


あれから数年。

今朝、まだ強さの残る日差しの下、秋の空気を吸い込みながら、洗濯物を干した。パンパンとシワを伸ばす度に、いつもの柔軟剤の香りが漂う。

私はもう、その香りに「会えない寂しさ」を覚えることはない。それどころか、もはや、私と彼の匂いは同じになった。同じ洗剤、同じ柔軟剤、同じボディソープ。全て同じものを使っている私たちは、今、同じ香りで構成されている。

そのことに気づいた時、少しだけ悲しくなった。彼の匂いにあれほどドキドキしていたのに、今はもう簡単には出来ないことが口惜しい。


「秘密」を共有してしまった私たちは、何か他の「秘密」を持たなければならない。

相手にドキドキするということは、相手の「秘密」に触れた証拠でもある。知らない部分にそっと触れた時、私たちの胸はチクリと動き出す。


その「秘密」を閉じ込めたものが、きっと香水なんだろう。

私は香水をいくつか持っている。ラ・フランスを連想させるような、すっきりとしてジューシーなもの。パリの図書館に気持ちが寄せられる、とびきり官能的な甘いもの。そして、いつだって秋を運んでくれる金木犀のもの。

彼は私以上に、たくさんの香水を持っている。いろんな香りと共に、いろんな思い出があるに違いない。あまり詮索はしたくない。だって、その香りに、私以外の誰かが隠れているかもしれないから。


今日も彼は、香水をシュッと吹き付けて家を出た。どんな思い出があるのだろうか。その香りを今まで、どこへ連れて行ったのだろうか。どこへ、誰と。


私には分からない。

分からないけれど、その「秘密」が鼻をかすめる度に、心がチクリと動くのを感じる。


彼のシャツと私のブラウス。

同じ香りを漂わせ、仲良く秋の風に揺れている。



ではまた明日。

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