何度目かの村上春樹『風の歌を聴け』と、過去の親友たちへのオマージュ

 村上春樹氏と、岸政彦氏『断片的なものの社会学』、ミラン・クンデラ氏『存在の耐えられない軽さ』は、折を見て定期的に読むことにしている。年齢、季節、精神状態、友人関係などいろんな変化が訪れるごとに、読みながら感じること、浮かんでくる景色、共有したいと思う相手も変遷する。今までもこれからも人生を共に歩んでいくような存在であることが、わたしにとっての「素晴らしい本」の定義。

 村上春樹氏の作品は、最近になって(『1Q84』くらいから)やっと少し理解できるようになってきた。ような気がする。『風の歌を聴け』を初めて読んだ中学生の頃は、ただ「村上春樹読んだことあります」の称号がほしくてかっこつけて文字面をなぞってみただけ。現代文の通信簿で2を取ったことがある高校時代は、《鼠》は本物のネズミだと思って「これはファンタジー?SF的な作品?」と首を傾げたり、随所に突如として現れる性的なワードや描写に狼狽したりした。いろいろヤケクソだった大学生の頃は、この本に出てくる音楽を聴きながらこの本に出てくる酒を飲むというのを全部やろうと思い立ち、友人を巻き込んで夜な夜な大学のそばの小さいバーに通って、それはそれでかなり楽しかった。あの子、今何してるかなあ。

 30代半ばの今、読んだ後の印象として最も深く残った感覚は、”通り過ぎていく“ということ。友人、恋人、音楽、趣味、記憶、さまざまな人やモノが自分とすれ違い、衝突し、交差し、そして通り過ぎていく。10代の頃、喜んで使っていた”BFF“という言葉や、クラスメイトのほとんど全員が聴いていた三木道三『Lifetime Respect』の歌詞のような、いわゆる「一生ものの関係」が、結局のところ幻想に過ぎないということを実感として持ち始めていて、だからこの小説からもそのことを強く感じ取ったのかなあ、と思う。ずっと、とか、永遠、とか、きっとないし、たぶん、なくていい。

 主人公と、最も親しかった《鼠》との関係も、この小説が終わったあともずっと変わらずに続いていくような、余韻を残した終わり方にすることもできたけれど、そうはならなかった。人生におけるある一定期間、たまたま最も親しい位置に二人が立っていたというだけのこと。

 《鼠》と主人公の関係は、この物語が終わったあと、どうなっていくんだろう、と考える。あるいは、すでに疎遠になってしまった、一緒にバーを巡ってくれた昔の親友とわたしとの関係は。毎日のように顔を合わせ、少ない言葉数でもお互いの思いを伝え合って、相談したり、元気付けたり、ときにぶつかったり、内容があるんだかないんだかわからないような会話を交わしたりしていた時代がたしかにあったという事実は、距離が離れ、そういうことが気軽にできなくなってからの二人にとって、どんな意味を持つんだろう。

 「過去の栄光」という寂しい言葉があるけれど、わたしは、たとえ過去のものであってもないよりはあった方がいいと思っている。普通なら持てなかったはずの感覚や、できなかったはずの経験が、自分のものとしてある人生とない人生なら、前者の方がきっとずっと楽しい。

 ある時期、非常に親しくしていた相手が時間とともに自分を通り過ぎてしまったあとも、その人と親しくしていた時期があったという事実だけは残る。過去の栄光と同じく、それがあるのとないのとでは大違いだ。今は遠くに行ってしまったり、忙しくて会えなかったりする相手でも、その事実を記憶している人(自分であっても、伝え聞いた第三者であっても)が一人でもいるうちは、その事実はずっと残り続ける。《鼠》と主人公の関係も、一緒にビーチボーイズを聴きながらギムレットを飲んだ彼女とわたしの関係も。

 通り過ぎていったかつての親友たちに思いを馳せると、一抹の寂寥感を覚えながら、それ以上に温かい気持ちになれる。一緒にいた時代があってよかった、と心から思う。そう考えれば、ここからもおそらくいろいろなものを通り過ぎ続けることしかできないだろう毎日と、人生と、恐れずに対峙していけるような気がしてくる。

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