電車(地下鉄)通学が苦手な理由を考えていく。

私は電車という乗り物に乗るのが非常に苦痛だ。

玄関を出てから学校に着くまで片道約1.5時間、移動という行為を強いられる。

物事を白黒で判断する(1か100かで)傾向にある私は、移動という行為は非常に面倒臭くて、無駄な行為だと感じている。

まず身支度から始まるのだが、心配性な筆者は大きなリュックになんでも詰め込んでしまえ精神で荷物を膨らませる。

リュックを背負い、玄関をでてスマホで乗る”べき”電車に間に合うように歩行速度を調整する。だいたいは音楽を聞きながら歩いているのだが、リズムと歩調が合わないと気が進まないので、側から見ると、3分ごとに歩調と歩幅が変わる変な動物に見えることだろう。

 歩く人々の姿を見ながら、「この人はこれから出社だ」、「このおじさんはただ買い物に外に出ているだけだ。」「あの制服の学生は荷物が多いな、学校に教科書を置けばいいのに、今時許されないのか?」「母校の制服だ、懐かしいな、あの色の鞄だと自分の何歳歳下なんだろう。」「白杖を持っている盲目の人がいる、よく棒一本で道がわかるな、白杖がもはや身体の一部となっているのだろうか。」「あのサラリーマンのスーツに付けられた会社のピンバッチは、、確か、○○銀行のものだな。」
 などと、目に入る人の情報がそのまま入ってきて連想と空想と推理が繰り広げられる。

 解決策として、この世界に自分一人だけだと自己暗示にかけ、周りの人々は実際には存在しない、さながらゲームの主人公であるように振る舞う行為をするのだが、効果がない。 

べき思考から脱却し、目の前のタスクや楽しさに心奪われてみたい。

 マインドフルネスが流行っているが、上記で述べたような推理ゲームはさながらシャーロックホームズだ。つまり常時マインドフル。架空の人物だが、コナンドイルは確かに存在していて実際に卓越した観察眼を持っていたのだろう。コナンドイルは医者であったと記憶しているがそれだけの頭脳と観察眼を持ちながら生きづらさを感じなかったはずがないと考える。その生きづらさの吐口が小説となったのだろうか。

 私は今ジャズを聴きながらタイピングを行っているが、とても集中できているとても心地のいい作業だ。徒然なるままにタイピングをすることはすきらしい。

 何度も書いてはボツにしている記事が山のようにあるので、推敲を加えて後々挙げてみようか。


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