鈴木家の日常⑦「うぐいす餅で正解ですか?」

「普通」の基準は一人一人違うから、「普通」という言葉をあまり使わないように生きてきた。これは父の教えだ。今思えば、その教えに都合よく言いくるめられていたのかも知れないが、おかげで私は人と違うことに違和感を覚えることなく、「ちょっと違う」人や行動、出来事に対して比較的柔軟だった。そんな私に、どうしても納得できない衝撃的な事が起こった話をしようと思う。

夫の両親が熱を出した。ユキオ夫婦が出て行った年の8月のこと。
「ちょっとメシ作りに行ってやれ」
夫に言われて、私は鈴木の実家へ行った。病気なんだから仕方ない、こんな時はお互い様だと自分に言い聞かせた。本当は、家の中に入ること自体が嫌で嫌で仕方なかった。
「具合はどうですか?」
寝室をノックして、私はドア越しに尋ねてみた。
「あのね、熱出てんだから具合悪いに決まってる。ちょっと頼みたいことあるから、ドア開けて入ってきてちょうだい」
義父の声が聞こえた。それを聞く限りいつも通りように思えた。開けたくないと思いつつ、ここを開けなければ何も始まらないから、一瞬息を止めてドアを開けた。
正面にベッドがふたつ並び、その奥にドレッサーらしきものが見えた。ベッドの周囲には、脱いだ服、バッグ、紙袋、シーツ?のようなものなど、とにかくいろいろなものが山積みだった。呼吸をしたら瞬く間に咳き込んだが、私はマスクを手で覆いながら声をかけた。
「あの、入ってきましたが」
「そこにあるでしょ、ほら頭の上。片付けてちょうだい」
ベッドと壁の隙間には、確かに台のような、棚のようなものが存在しているように見えた。少しずつものを避けながら近付くと、異臭が漂っている。飲みかけの何かが入ったカップが数個置かれ、臭気の原因は明らかにここだとわかり、恐る恐る中を覗く。正直、全く関心を持つことの出来ないカップの中身をわざわざ確認するのもどうかと思うが、一応形式的にやってみた。そしてその先に待つのは後悔しかないのも明らかだった。
実際の中身が何なのかわからないが、この数日間に置かれたものではないように思える。あるカップはモスグリーンと白色のふわふわしたカビらしきものが覆われ、別のカップには砂鉄のような真っ黒な何かが浮いていて、また別のカップはいわゆる赤カビのようなものが内側に付着していた。
持参した使い捨てのビニール手袋をして、マスクを二枚重ね、コンビニで買った雨合羽を纏い、義父母の頭の上にある危険なカップをキッチンへと運んだ。
キッチンだってもちろん汚い。二重マスクでも臭気が鼻を突き、殺人的な空気が喉に刺さるから1階のほぼすべての窓を全開にした。換気扇を回そうとしたが、それはフワフワとネトネトが混在する得体のしれない汚れの宝庫だった。いつのかわからない急須に入れたままの茶葉も、山積みで置かれた食器や残飯も、ショウジョウバエが群がるぬか床も、相当な覚悟と勇気で勝手に処分した。処分しないと先へ進めないほど汚かった。こういうのを世間では『ゴミ屋敷』と呼ぶのだろう。シンクはほぼ全面黒カビで覆われているし、これ全部をたった一人で1日で終わらせることにめまいがした。

4時間かけて、ようやくきれいにしたところでもう一度両親の様子を見に行くと、義父が「お腹が空いた」という。
「冷蔵庫にほら、あれがあるから」
あれってなんだ?何が欲しいのか尋ねてもわからない。とにかく冷蔵庫を開けてみるが、どれをとっても賞味期限がだいぶ前に切れている。上から2段目の一番奥にひっそりと置かれた透明パックに入った何やら薄緑色をしたものが。私はそれを手に取った。ん?うぐいす餅か?
今まで見た賞味期限をはるかに過ぎたもののような異臭はない。底面を見ようとひっくり返した瞬間、パックの隙間からふわっと薄緑色のものが煙のように舞った。カビだ、絶対カビだ。よく見ると消費期限が2年前の日付。うぐいす餅でないことが明らかだが、結局それが何なのかわからないままゴミ袋へ突っ込んだ。申し訳ないが、鈴木の冷蔵庫には、食べて大丈夫なものも、すぐに食べられるものも存在しない。冷蔵庫の中身をすべて処分した後、私は掃除の途中で自宅へ戻り風呂場へ直行、シャワーを浴びた。全身をきれいにしてから自分のキッチンに立ちたいからだ。
こうして、おかゆと煮魚と温野菜をこしらえて両親へ届けた。もちろん使い捨て容器に入れて。
両親は、「あんまり旨くないね」とブツブツぼやきながらも完食したから、よほどお腹が空いていたのだろう。病人食なんだから、減塩で薄味。なんにでもしょうゆをたっぷりとかけて食べる両親には美味しくないに決まっている。料理が不味いと思ってくれて大いに結構だった。
結局この日、鈴木家から出たごみ袋の数は、45リットルが13個。だいぶ処分したが、家じゅうを掃除したらこの数倍はあるのだろうと背筋がゾゾッとした。そして、私は翌日から3日間熱を出して寝込んだのだ。両親の風邪がうつったのか、家の中のカビや細菌によるのかは変わらないが39度の高熱だった。
両親はその翌日にはすっかり元気になって、ものの数日でキッチンがゴミだらけになったことは予想通りだが、私はもう2度と鈴木の実家は掃除をしないと心に決めた。



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