友達の子育てをのぞいたら自分の過干渉に気づいた話
向島を訪れた理由
夏休みに向島に住む友人を娘たちと訪ねた。友人とは10年前に少し一緒に仕事をして以来。当時は尾道に移住したばかりだった彼女も結婚出産を経て、現在は「みらいのこども舎」という自主保育(現在は完全に預かりもOK)の場を立ち上げている。
私が彼女のもとを訪れたのは、自分の子育てに疑問があったからだ。なんだかいつも怒りすぎている気がして、子どもたちとの関わり方を変えたかった。彼女のところに何かそのヒントがあるような気がした。
そして、旅から帰ってきて1ヶ月以上が過ぎた今も余韻は続いていて、もはや心の拠り所のようになっている。
あっさり壁を乗り越えた娘たち
娘たちが今回の旅で一番楽しみにしていたのは海だった。コロナもあって、娘たちはほぼ海に入ったことがない。正確には長女は3歳の時に海に行ったことはあるのだが、波が怖くて一歩も入れず、砂遊びを楽しんで帰ってきたことがある。今はスイミングスクールに通い始めたけれど、怖がりなのは変わらず、今回も海に入れるかどうか私は疑問に思っていた。
向島に着いて2日目。友人とその子どもたちが地元のいつものお友達と海に入るということで混ぜてもらうことになった。さすが毎日のように海に入っているとあって、地元の子どもたちはガシガシ海に入って、お気に入りの遊びを始めている。すると、長女もあっさりと海に入っていった。
私はものもらいができていたり、まだ怖いという次女の相手をしたりしていて、海の深いところには入っていけなかった。けれど、子どもたちと一緒に、地元のお母さんたちも何人か海に入っていて、長女のことも気にしてくれていたので見守っていることにした。
気がつくと、長女はいつの間にか足のつかないところまで行っていた。時折、遊んでくれているお母さんにしがみつきながらも、楽しそうに友達と泳いでいる。あっさりと私の予想を裏切ったその姿には感服した。
そして翌日には、次女も恐々と、でもしっかりと自分の意志で海に入っていった。こちらも私ではなく、友人に受け止めてもらいながら、足のつかないところを少し泳いだ。
長女も次女もとても誇らしげでキラキラしていて、それを見守るお母さんたちの顔はすごく慈悲深くて美しかった。私はというと、「私にもあんな顔できるのかな」と少し寂しく砂浜でそんな光景を眺めていた。
お風呂もごはんも怒らなくても終わってた
海遊びが終わるともう夕方。海の近くのいくつかの友達の家に分かれて、みんなだだーっと帰る。友人の家にも、一緒に遊んでいたほかのお家の子も来ている。子どもたちは自分たちでお風呂をすませ、しばらくするとご飯が出てきた。みんなもりもり食べている。ここまで誰かがぐずることもなく、大人が「~しなさい」と指示を出すこともなく、元気に大騒ぎはしているけれど、ちゃんとことが進んでいく。我が家の日常とまるで逆だった。うちでは夕方から寝るまで、私が怒らない日はないし、指示なしに子どもたちが動くこともほぼない。なんなら指示を出したって動かない。お風呂だって絶対に子どもたちだけでは入ってくれない。年齢もほとんど同じなのに、この差は何だろうと思った。
子どもを信じるということ
向島にいた数日間はこんな調子で、家事も育児も人任せで、のびのびやってる子どもたちを見ながら、自分の普段の生活を振り返ったりしていた。みんなを観察しているうちに、海で娘たちを見ていた向島のお母さんたちの優しいまなざしと、自由でやんちゃだけど、やることはちゃんとやっちゃう子どもたちのたくましさが繋がって、「子どもを信じる」ということがすとんと腹に落ちた。
私はなぜ「娘たちは海に入れない」と思っていたのか。それがすべてな気がする。結局、指示ばかり出してるのは、娘たちができると信じてないからかもしれない。
言ってしまえば、「子どもの力を信じる」というのはそこら中で言われていて、何も珍しい話じゃない。でもそれが実践されている日常を垣間見ることはなかなかないのではないだろうか。友人たち大人の声の掛け方や接し方、一見小さなことの一つ一つから子どもを尊重していることが伝わってきた。そして大人のそうした態度が、逆に子どもの大人への信頼にも繋がっているのだろう。
非日常から日常へ。旅が子育てを重層的にする。
向島の旅は私にとって得難い経験になった。相変わらず怒っていることも多いし、何かが急に変わったわけではない。けれど、非日常だった向島の日々で感じたことは確実に今の日常に繋がっている。来年は一緒に海で泳げるといいな。
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