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『映え』の世界の住人たち


可愛い自撮り。豪華な食事やお酒。色とりどりのアクセサリーや、フォトジェニックな風景。

今やSNSの中で、これらを全く目にしない日はなくなってしまった。
ツイッターでもインスタグラムでも、いかに『映え』るかを競い合っている。
その人個人が、何を感じ、何を考え、どうゆう過程を経て今に辿り着いているか…なんてどうでもよく、
とにかく世間は、『映え』以外を認めようとしてくれない。

急に、それらのすべてが気持ち悪くなってしまった。

何もはじめから『映え』に反旗を翻して生きてきたわけではない。

一応、役者という〈多少なりとも綺麗な格好で人前に立たなければいけない〉ことなどをやっていたため、いかに綺麗なモノを、カッコイイモノを伝えるかもひとつのアイデンティティーな節はあった。
写真に映る際もなるべく細く見えたり、可愛く思えるような表情のものを選んでいたし、食事の写真を撮る場合も、色合いを気にして美味しそうに見える角度や配色を気にして、俗に言う「茶色っぽいだけのもの」は撮らないように気をつけていたりした。

それがふと、頭の中にこんな考えがよぎるようになった。

「てゆーか、これ…誰に向けての気遣いなの…? つーか、誰得?」


誰かに「SNSに載せる写真は煌びやかなものでなくてはならない」と指定されているわけでもなく、「フォトジェニック」な写真でないと罰金を課せられるシステムでもないにも関わらず、私は勝手に『映え』を意識し、『映え』を奉り、『映え』に媚を売るようになってしまっていた。『映え』の世界の市民権を得ようと必死だった。


いつのまにか『映え』に洗脳され、『映え』を意識して生きてしまっていた。
私にとって『映え』が体内に入ってくるのはウイルスと同じだった。
ウイルスが体内に侵入すると鼻水出したり咳したりして、必死にブロックする。それと似たような感じ。
とにかく心身ともに気持ちが悪く、私の中から『映え』要素をとにかく吐き出したくてたまらない程に、なんかわかんないけど急に気持ち悪くなった。

だから、常に『映え』を意識してる人たちのことも、とても気持ち悪く感じるようになってしまった。


だってインスタ女子、うるさいほどマウンティングしてくるんだもん。


インスタグラムに企業側からお願いされ、企業のPRを載せて広告収入を得る。フォロワーが何万人といること。
日々「招待」「招待」「招待」。

それを『映え』女子たちは、それを「勝ち組」だと自称する。

私はインスタ自体やっていないし(一瞬やったことはあるけど『映え』の競争社会に向いてないと悟りすぐやめた)、ツイッターのフォロワーも1000人ととても少ない。
ハッキリ言ってフォロワー1000人も100人も10人も、『映え』の世界の女王たちからすれば同じなのだ。
彼女たちから見たらそんな私はとても小さい存在で、「負け組」なのかもしれない。
だからマウンティングしてくるのだろう。
だって、彼女たちからしたら私は、確実に「勝てる」相手だから。



インスタの投稿に時間やお金のすべてを費やし、楽しんでいる人たちを否定はしない。誰だって美しいものが見たいし、が、仲良くはなれないと思う。(向こうはもっと私となんて仲良くなりたくないと思う。)


この気持ちは一種の妬みなのだろうか?

キラキラして充実している(ように見える)彼女たちへの、羨望や嫉妬なのだろうか?

「いいな」とは思うことはあっても、「ああなりたいな」とは1mmも思えない。

だけどもその態度がまた、インスタ女子たちからしたら気に食わず、マウント取りたくなってしまうのかもしれない。

それって新しいタイプのイジメのようにも感じる。


ただ、『映え』の世界を一度気持ち悪いと感じてしまった私は住人にはもう戻れずにいる。『映え』を追求している女子たちを見れば見るほど、彼女たちに対する興味がなくなっていく。スゥーっと、何かが引いていく音がするのがわかる。まるでお人形のような顔をした女の子たちが、人間とは思えずに怖くなる。何万人の誰かに向けられた笑顔がまるで、同じ何万人かを従える別の女王への威嚇に思えて、体温を感じずゾッとする。

私はあそこには住めなかった。

住めば都というけれど、私からしたら住みたくない都だった。



今日もその都で、女王蠅たちは羽を鳴らしている。

都の市民権を得ない私にとって、
その綺麗さはとても汚くて、とても愉快で不愉快なのである。




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