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「書く」ことはきっと、寂しさを受け入れるということ。


もう15年ほど前のことになるが、
居酒屋でアルバイトしていた時期がある。

当時はまだ体力も有り余っていて、昼間別のところで働いていたのに夜もそこでアルバイトして、さらにお店を閉めた後に残っては、朝まで飲んでいたりした。

特にそのお店の店長というか、マスターとは、
飲みながらいろんなことを語る仲だった。
一時期は関係を疑われてしまうほど、連日のように二人で朝まで飲んだ。
私がマスターの話(飲み)に付き合うこともあれば、マスターが私の話(飲み)に付き合ってくれることもあった。

歳の離れた、いいお父さんのような、良い友人のような、そんな関係だった。


ある夜、マスターに言われた。

「千尋ちゃんは、寂しいときや満たされてないときほど文章が書けるんだね」



当時、mixiというコミュニティーサイトが流行っていて、私たちの居酒屋でもみんな登録していた。
みんなそれぞれマイミクだった(懐かしい)。
私が日記を更新するたびに、マスターも読んでくれていた。

おそらく「何かがあって寂しい」という時期に、
日記の更新頻度が高かったり、文章が長かったりしたのだろう。
マスターは自分では気づかなかったそのことを私に教えてくれた。

「千尋ちゃんが何かを書くってときは、多分そうゆうときやから。でも文章もすごくいいけん、そうゆうときにこそどんどん書いて吐き出したらよかと思うぞ」



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あれから15年ほど経った。


ここ数ヶ月、なんとなく「書けて」いなかった。

スマホでnoteを開いたり、紙に向き合ってペンを持ってみても、書けない。
出てきたとしても私にとってはつまらない文章で、わざわざ「書く」に値しないものだった。

言葉達もそれをわかっているかのように、
私の元へ降りてきてくれなかった。
掴めそうと思っても、逃げられて、
また追いかけても逃げられて…
の繰り返し。
なんとなく、言葉と仲良くできない時期が続いた。


多分、私は満たされてしまっていた。
現状に満足して、日々に流されてしまっていた。


これは私の癖みたいなもの。
満たされるとね、「書けない」んだ。


「書けない」という日々は、
私にとって書くことは呼吸をすることと同じだから
苦しかった。
でも、その反対に心は穏やかで満たされていたなんて、皮肉だね。




そういえば、旦那さんがいて子供がいるのに、
「こんな幸せな状態で小説が書けるの…?」
と、離婚した女流作家さんがいたな。
誰だったっけな。


でも、

もしかしたら物書きの女性にとっては、
ほとんどがぶち当たる壁なのかもしれない。

「これ」は。






だからつい最近、自分自身に負荷をかけた。
簡単に寂しくなれる魔法を。
効果は抜群のようだ。


ここ最近は、毎日のように目が腫れている。
顔も浮腫んで、くすみもひどい

だけど、それでいい。

それでも文章は書ける。


そのほうが書けるんだ。私は。


寂しさとか、怒りとか、哀しみとか。

日常では無いほうが幸せな感情でも、
私にとってはそれらは大事な感情だ。
むしろ一般的にはマイナスに捉えられがちな感情たち。
私のところへ来てくれてありがとう。


私を寂しくさせてくれて、怒りを感じさせてくれて、
哀しみに突き落としてくれて。

だって、私は、「表現者」だから。

どんな醜い感情でも、それをそのまま抱きしめて包み込んで届けるの。

それを同じような感情を抱いている人たちといつか共有できたら最高だなと、夢を見ながら。


どんな感情でも、
それがどんな痛みでも。
掬い上げて掻き集めて書くよ。


痛みがあればある程言葉が生まれてくるのなら、
私は「普通」の幸せなんて要らない。

悲劇も喜劇に書き換えてみせるよ。





「千尋ちゃんは、寂しいときや満たされてないときほど文章が書けるんだね」



まるで今の私を予言でもしていたかのようやマスターの言葉を、いま、ひしひしと思い出している。




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