親子三代で佐世保玉屋へ【2019年5月24日執筆】
まえがき
みなさんは百貨店好きですか? 佐世保にお住いの方、または住んでらっしゃった方、佐世保玉屋は好きですか? わたしは好きでしたし、今でも好きです。きっと人それぞれに思い出の百貨店があるのではないでしょうか。
この記事は2019年5月に取材させていただき執筆したものです。
「佐世保玉屋が大好きなので、その歴史や今の姿を伝える取材記事を書きたい」。当時、ライターとして在籍していたとあるメディアにその企画を出していたのですがなぜかボツになりまして。オイオイなんだよそれ!じゃあ個人的に取材させてもらうもんね!とダメ元でアタックしたことがきっかけでした。
その思いを受け取ってくださったのが元人事課の男性。取材依頼の電話をした際に窓口の方がその人に取り次いでくれて、それはもう親身になって取材を受けてくれたのでした。「多くの方に永く佐世保玉屋をご愛顧いただきたいので協力は惜しみません」と言われ、胸が熱くなったのを覚えています。他にもベテラン販売員さんや屋上のプレイランドのスタッフさんなど、色々な方々にお力添えいただいて書くことができた記事です。
せっかく自分のブログで公開させてもらうのならばと、わたし個人の体験もガンガン盛り込みました。こうして好き勝手に書き尽くした結果、体験パートで約4000字、取材パートで約4000字の8000字越えという謎のボリュームとなりました。分けろやと思うけれど、一気に読んだらどっぷり浸れるんだもの(わたしが)!玉屋に……。
(そしてこの記事はデイリーポータルZの自由ポータルZに「あと一息」で掲載されました。その後、ライター採用への闘志が芽生えてめちゃくちゃ書いた……。本当に思い入れのある記事です)。
「昔はこんな姿だったんだ!」「懐かしいな~」といった気持ちで思い出をプレイバックしながらご覧いただけると幸いです。
また別の話になりますが、この記事を書いてから4年後に佐世保玉屋の広報お手伝いとしてちょこっとお邪魔させてもらったことを記録としてnoteに残したいと考えております(今後の活動費として有料にさせていただきたいと考えてます)。
あくまで個人的な体験記とこれからの玉屋さんへのエールといった内容になる予定ですので、玉屋スキ!これからも何らかの形で頑張ってほしい!と思う方はぜひご覧いただけますと幸いです。佐世保玉屋さんの方針や今後のことについては一切言及したり意見を交わすことは致しませんので、どうぞご了承ください。
ではちょっと長いですがどうぞ~!
玉屋いこーで、玉屋
わたしに子どもが産まれてから、はじめて迎える『母の日』。これまではちょっとしたプレゼントやケーキを持って母の家に遊びに行っていたのだが、今年はせっかくなので、子どもを連れて家族でお出かけをしようかと思い至った。
とはいえこれが初めてではなく、ついこないだも「九十九島水族館海きらら」に母たちと行ってキャッキャしてきたばかりだ。実によく遊んでもらっている。
今回は、母の日なので特に馴染みの深い場所をと考えた。そこで登場したのが『佐世保玉屋』である。
わたしが幼少のころはお出掛けの定番といえばそこで、ショッピングはもちろん、広い食堂や屋上遊園地は必ず訪れる鉄板コースだった。7階の催事場では毎年行われるサンリオの催しに行ってカラー砂絵で遊んだりしていたし(結構な枚数の作品が溜まっていたとおもう)、今はもうなくなっているが、8階のローズギャラリーでは人形作家の母が個展を開いて大勢のお客さんが来てくれたのを覚えている。思い出せばきりがないが、そんなメモリアルな場所なのである。
今や足を運ぶのは、北海道物産展やバレンタイン王国ぐらいとなってしまったのが寂しいところだが……。
佐世保市民にとって玉屋が特別な場所であることは、昭和生まれ世代であれば手を挙げるひとも多いかもしれない。
母は「お出掛けの前日は、遠足のときみたいにワクワクして眠れなくて。当日は張り切ってドレスアップしたなあ。行きは何も問題ないんだけど、帰りは必ずと言っていいほど親とケンカしていたわね」と振り返る。
お義母さんにも話を振ると、古いアルバムを持ってきてくれた。
おめかしだ。小さいお義母さんが頭にスカーフを巻いている!一緒に居る男性はお父さんだから、夫のおじいちゃんだ。素敵な洋装である。
やっぱりこの時代は三世代でおめかしなのだ。わたしもかなり気合の入ったコーディネートを母にお願いしていたなぁ。あと欲しいおもちゃを買ってもらえず、グズって泣きわめいて父から怒鳴られたなぁ。思い出を数え出したらキリがないよ。
そんな、わたしたち親子にとっても縁が深いこの場所に、ぜひわたしの子どもも連れていきたい。そこで、「玉屋いこーで、玉屋!」となったわけである。
ちなみに、佐世保玉屋は老朽化のため2022年3月末までには現店舗の取り壊しに着手する計画なのだという。(※2019年5月時点での情報です。)
今の姿がなくなってしまうまえに、という言い方もおかしいが、わが子には小さいうちに見せておきたかったのだ。
まずは玉屋食堂の焼肉定食で祖父を偲ぶ
お腹が空いたので、まずは玉屋食堂へ行こうとなった。
わたしの祖父で母方の父は、数年前に療養のため佐世保をやむなく離れ神奈川へ行ってしまい、昨年そのまま帰らぬひととなった。
佐世保を発つ前、年齢は90をゆうに超えたうえ視力も衰え痴呆もひどかったが威厳と食欲だけは抜群だった。母が作っていた肉野菜炒めを「おまえが作った飯は美味いな」と顔をほころばせながらモリモリと食べていたのを覚えている。それをみて祖母が「よかったですねお父さん」というのが定番の流れだった。
そんな祖父が通院のあと必ず訪れていたのがこの食堂で、決まって注文していたのが『焼肉定食』だったそうだ。祖父の葬儀のとき、親戚とその話題が出たほどに焼肉定食は祖父のパーソナリティの一部となっていたのだ。
祖父が亡くなってからもわたしは1人で、まだお腹にいたわが子と一緒に焼肉定食を食べに行った。結構なボリュームのため苦戦しつつ完食したけれど、生姜焼きのような和風の味付けがとても親しみやすかった。
今回は母と妹と、綺麗な食品サンプルが並ぶショーケースの前でどれにしようかと悩んでいる。
「小学生の頃は、ここでご飯を食べた次の日は学校の皆に自慢してたのよ。ソフトクリームだったり、旗が乗ったお子さまランチだったりね」と母が笑う。
“玉屋の食堂でゴハン食べた!”は立派なステータスだった。
迷いつつやはり焼肉定食に気持ちを固める。すると母と妹1もそれがいいという。性格柄、食べ物を仲良くシェアするような親子ではないので別にいいのだが絵的にどうなんだ。
食堂の入口でスタッフさんから食券を購入する。この光景は、かつて存在したエレベーターガールの次にレアじゃないかな。
中は50名以上は余裕で入る広さだ。テーブル席とお座敷がある。たしか祖父母と一緒に来たときはあそこに座ったよなぁと、円卓を眺める。
みんなで雑談をしつつも、内装、小物、あちこちに目が行ってしまう。
キョロキョロしつつ他愛もない話をしているうちに、店員さんがトレーで料理を運んできた。人数がもっと多ければ、ホテルのルームサービスのような銀の台車でガラガラとやってくるのを見ることができたかもと思うと少し残念だった。焼肉定食が3つ、テーブルの上に並ぶ。
わたしは、真っ先にタレをまんべんなくかける派だ。母は丁寧にタレの入った皿に肉を1枚ずつ浸して食べている。甘辛のタレが牛肉の旨味と絡んでご飯が進む。あいだにしば漬けを挟むとなお最高だ。面白いことにこれを食べている時は、祖父の話題は一切出なかった。親子三人で焼肉定食と一心不乱に向き合った。
お腹も満たされたころ、もう1つ注文していたデザートのことを思い出した。うさぎアイスである。
その名の通り、うさぎを模したアイスなのである。以前は目がレーズンだったように思うが今はやっつけ程度にアーモンドが乗っている。
「バナナは耳で、オレンジが両手で、チェリーはどの部位?」
一同は無言になった。
「まあ食べなよ、妹1」
これはわたしから妹1へのプレゼントだ。昔、妹1が幼稚園の帰りに母とこれを食べたということを知り、姉妹で大喧嘩を繰り広げたことがある。30歳を超えた今、こうして当時の大人げなさから脱した自分を見せつけることができたのだ。勝手な自己満足感にひたる。
食事を終えて屋上遊園地へ向かった。
希少価値は年々アップ。全国から注目を集める屋上遊園地へ
玉屋の目玉のひとつでもある屋上遊園地。やはり百貨店の屋上といえばこれだろう。サザエさんのアニメに登場しているのを見たことがあるが、 消えゆく昭和の風景の1つとなってしまい年々その数は減少している。
ここは『プレイランド』という。なんと今回初めて知った。アトラクションはほとんど体重制限があり、基本的に子どもオンリーだ。
しかし、大人でも乗れる唯一の遊具があったのだ!
それは「空とぶかいぞく船」。
ヒョウ!と妹1と躍り出て、30代女二人で乗ってみることにした。
「出発時はガクンと反動がくるので注意してくださいね」とのこと。妹1とうおっと言いながら、ゆるゆる動くかいぞく船(モノレール)から見える景色を楽しんだ。
佐世保市博物館島瀬美術センター、親和銀行本店などの市街地のランドマークを視界におさめつつぐるりと一周。降りるまえにスタッフさんに記念撮影をしてもらった。
お稲荷さんへお参りに
玉屋の屋上には、稲荷神社が祀られている。
なぜこんなところに。ふしぎである。
わたしは「ここに親子三代で来れたことが嬉しいです」と伝えておいた。
稲荷神社を後にし、もう少しあたりを散策する。あともう少しすればシーズンがやってくるであろう、ビアガーデンのほうへ伸びている通路を歩いた。
景色を堪能した帰りに、屋上遊園地限定ぬりえというものがあったので購入してみた。
ぬりえの下には、「佐世保玉屋屋上遊園地」の文字と、スカイパークのロゴマークが。
ここで初めて、プレイランドの運営元を知るのである。
大学進学の際に佐賀に住んでいたころ、家から少し離れたところに『神野公園こども遊園地』というこれまたレトロなスポットがあった。そこへ単身乗り込み、当時ハマッていたmixiで長々としたレポートをしたためた思い出がある。そんな奇妙な縁を感じ、胸がドキドキした。
それにしても佐世保玉屋って、ほんとうにいいところだなぁ。家族と来れて本当によかったよ。うん、感無量。
しかし感動に浸りながらもわたしの心の中には、ふつふつと湧き出る想いがあった。
いまの姿をみて、懐かしいね、レトロだね、よかったね……ほんとうにそれだけで終わっていいのだろうか。やはり、祖父母や母たちが目にしてきた、当時の姿をわたしも一目みてみたい。見てみたいでしょうよそりゃあ!
今は今で良い。しかし昔の姿も知りたいのだ
やはり親子三代でやってきた(しかも祖父母のことまで偲んだ)からには、いまある風景だけで終わるわけにはいかなかった。そこで、昭和の佐世保の一大ランドマークとなった佐世保玉屋の昔の風景を見てみようとおもう。
株式会社佐世保玉屋の総務部人事課をたずねた。
佐世保玉屋が誕生したのは1806年(文化3年)のことだ。肥前国(佐賀県)牛津町に荒物呉服商『田中丸商店』を開業したのがはじまりである。
その後、軍事都市として栄えた佐世保に1894年(明治27年)に進出、1918年(大正7年)には、佐世保玉屋の前身となる『株式会社田中丸呉服店』に改組した。1920年(大正9年)には、栄町に九州初の百貨店となる鉄筋4階建ての『デパート田中丸呉服店』をオープン。さらに、1931年(昭和6年)には1階から5階をつなぐ西日本最初のエレベーターが完成し、当時花形の役職とも言われたエレベーターガールが活躍した。『佐世保玉屋』へと改称されたのは、そこからさらに10年後の1941年(昭和16年)のことだ。
……と、書き出すとあまりに膨大な歴史のためこれ以上の詳細は割愛させていただくが、その後も九州各地へ次々と進出し、幾度の大改増築を経て現在の姿に至ったのである。
みんな大好き屋上遊園地は、小規模な遊び場からめざましく発展を遂げていく。昭和32年9月にはなんとロープウェーまで誕生した。5階屋上と7階塔屋間を往復していたものだという。
真下は建物の谷間になっていたため、とてもスリリングだったに違いない。
そして昭和40年。“若い玉屋、新しい玉屋”をキャッチフレーズに新装開店と至ったのである。賛否両論あったかもしれないが、まるで若い芽のようにぐんぐんと進化を遂げる佐世保玉屋のようすを、当時の人々はワクワクしながら見守っていたに違いない。
新装開店に人々が湧くなか、その翌年には回転式展望台「ローリングタワー」が完成。
地上30mの11階屋上で、グルグル回りながら佐世保の景色を360度あますことなく楽しむことができた。あまりに珍しいため九州各地から多くの客が詰めかけたという。
この屋上遊園地と、6階の大食堂、5階のおもちゃ売り場をまとめて“夢の楽園”といわれていたほどだ。子どもたちにとって「玉屋へ行こう」の目的は、まさにここだったのだ。
あと、これは忘れてはいけない。玉屋を訪れるファミリーたちにとてもお役立ちだったのが、長年現役で稼働を続けている「クローク」だ。
いまやお買いもののお荷物はロッカーで預けるのが当たり前という時代、人の手で預かるなんてのはここぐらいなものだろう。現在はお年寄りの利用が過半数を占めている。
写真を見てふと気がついた~あの遊具の場所って?稲荷神社の謎~
ふたたび屋上遊園地の話に戻る。写真を見てさらに驚いたことがあったんだけど……。
「コーヒーカップがあったんですねー!」
そうだ。当時はモノレール(現・かいぞく船の前)に加え、コーヒーカップもあった。位置的にはプレイランド入口のすぐ目の前に広がっていたようだが……。
現在「たまおく交流室」が入っているスペースには、ペットショップとスイーツ販売店があった。ペットショップまでは、30代のわたしでもかろうじて記憶に残っている。Twitterのフォロワーから「あそこは動物園があって、小さなクマがいたよ!」という情報もいただいたが定かではない。
またさらに、アトラクションの1つに「回転飛行機」があったのだという。屋上の隅の高い位置に設置されており、回転するときにどの機体も必ず一部が建物からはみ出すつくりになっていた。8階建ての屋上から一気に地上が見下ろせたわけである。これは高所恐怖症にはたまらないだろう。
「まえ、透明なUFOみたいなやつありませんでした?上下に動くような……」と聞いてみたが、誰も知らないようだった。
わたしが見たのはホンモノだったのか。
「そういえば、あのでっかいローリングタワーがあった場所は……」
稲荷社殿のうえだった。
この先の階段を人々はルンルンと登って行ったのだ。稲荷社殿があるフロアにある作業スペース兼物置部屋は室内ゲームコーナーだったそう。
「ところで、なんで玉屋の屋上にお稲荷さんがあるんでしょうね」と尋ねると、「そりゃ商売繁盛の神様だからね」とすぐに返事がかえってきた。
この稲荷社殿は、もともとは佐賀県の鹿島祐徳稲荷神社の分社だという。なにがきっかけで移ったのかはわからない。(以前の社長・田中丸善三郎氏が同神社にグレートな賽銭箱を寄付したご縁で、とも聞くがどうだろう)
いまも語り継がれる昭和20年6月の大空襲の際、街と共に大きな被害を受けた玉屋だったが、なんとこの社殿だけは無傷だったのだという。その後、現在の場所に移されたらしいのだがまさに霊験あらかたである。
恥ずかしながら初めて知ったのだが、ここでは毎年2月に『初午まつり』というものが行われている。
おみくじ抽選会などが開催され、新年の縁起担ぎに多くのひとで賑わうのだそうだ。
スタッフさんに聞いたプレイランドの思い出
稲荷社殿からはなれ、プレイランドに降り立ち、スタッフさんと会話する。
「私が小学生のころは、学校帰りに10円玉を握りしめて友達とよくここへ遊びに来ていたものよ。おやつに玉屋饅頭を買って食べてたね」玉屋饅頭というものがあるのか。ほんとうに知らないことだらけだ。
スタッフさんは定年まで玉屋で勤め上げたのち数年間のブランクを経て再び舞い戻ってきたという超ベテランさんだ。幼い頃から親しんできたという玉屋への愛も深い。
「以前はね、望遠鏡みたいな遊具があって。お金を入れて覗いてみるとカシャンカシャンって写真が出てきて、まるで本当に遠くの景色を見ているかのような遊びができたの」
今も昔も、ここが子どもたちにとっての憩いの場だということは変わらないようだ。
「前はね、あそこはゴーカート場だったのよ」
「え!?あそこがですか!」これは新事実だ。
小規模だったようだが、2~3台程度のゴーカートがコースを走っていたらしい。なお左手にある岩場のようなものは『幸福の滝』という名前がついている。その名の通りいつでも水が流れていたのだが、ビアガーデンの時期以外は機能していない。4~5年前、とうとう老朽化による水漏れが起きてしまったのだそうだ。現在は夏のビアガーデンの時期にのみ力を振り絞り、ライトアップと流れる水で独特の雰囲気を醸し出している。
「屋上遊園地は、古いけどそれが珍しい懐かしいっていうんでね、たくさんの人に注目してもらって嬉しいわ。こないだなんか東北や関東からわざわざお見えになってくださったの」とスタッフさん。
先日「空とぶかいぞく船」に乗ったお客さんが「街中を電車が走ってる!」と驚いたそうだ。松浦鉄道のことだ。
「高い所からだし、タイミングが良ければ佐世保港の軍艦も見えるしね。やっぱり県外のひとにとっては新鮮みたい」
ふだんはアーケードに隠されて見えなかったものがここにはある。たしかに、佐世保本来のといってもいい自慢の景色だ。
「ここがいつまで残るのかはわからないけれど、もっとたくさんの人に足を運んできてもらいたいな」
その後もスタッフさんと景色を眺めながら、親和銀行の建築美のことや、日本一駅間の距離が短い佐世保中央駅~中佐世保駅区間のことなどで盛り上がった。
番外編:まわるお菓子
ところで、佐世保市民なら誰もが懐かしむであろう「回るお菓子」。正式には『ラウンド菓子』という。こちらはバリバリの現役である。これに関しては他の百貨店でも同じものが見受けられる。
せっかくなので、お土産にとどっさり購入した。
この量で600円オーバー。やや高い気がするけどそんなこと気にしてはいられない。これはいわば、子どもたちにとっての「ご褒美」なのだから。
20年前と比べると、ラインナップはすっかり様変わりしてしまったようだ。30代のわたしからすると、まりも羊羹もなければ、青リンゴガムキャンディもないのはショックだった(偶然の品切れ?)。
わたしのなかでどうしても再会したいお菓子がある。『妖精ビスケット(仮』なんだけど、知ってる人いるでしょうか?
楕円形のうすくて甘いビスケットなのだが、1枚1枚に妖精の子どもとその仲間たち(?)がプリントされている。
「かたつむりのタクシー」
「お花のベッド」
「みのむしくんとブランコ」
など、一度見ると忘れられない微笑ましさが魅力的だった。このイラストはチョコ味に違いないと勘違いして舐めて消してみたりした幼いおれ。
なんだか小綺麗な様相になってしまった回るお菓子の、かつてあった昭和の街並みと同じようなカオス感がちょっぴり恋しくなった。
これからどうなってしまうのだろう
2022年までには取り壊しとも言われている(※2019年5月時点)佐世保玉屋の行く末は、一体どうなってしまうのだろうか。人事部の大坪さんに聞いてみた。
「安全のため、早い段階での取り壊しは避けては通れないでしょうね。今の状態でそのまま新装開店してほしいというお声もたくさんいただいていますが、現代のニーズなどを考えるととても厳しい。縮小は免れないでしょう。しかし、長年ご愛顧いただいているお客様の生活にこれから先も寄り添っていけるよう、時代に合った形で総力を尽くしていきます」と語ってくれた。
200年以上続く玉屋を、この先もずっと残していきたいそうだ。「いっそ建て替えたときに、屋上に観覧車つくっちゃったらどうですか!」と笑いながら大坪さんに言うと、「ははは」と笑ってくれた。
この風景は、一旦、という形をもって終わりを迎える。わたしにとっては、子どもと母親と三世代で思い出を共有できたかけがえのない思い出づくりの場所となった。
「みんなでたくさん玉屋で物を買って応援しよう!」「じゃんじゃん遊びに行こう!」とも言いたいところだが、一番は「今ある姿を見に行こう!」である。祖父母や両親と共に時代を重ねてきた価値のあるものとして、しっかりと向き合ってみるのだ。そして、今後どういう道を歩むのかも見守っていきたいところである。
いつまで残っているかはわからないが、わたしはたぶんまた、ここでしか見られない景色をみに家族と足を運ぶことになるだろう。
【参考文献】
「佐世保玉屋50年小史(発行:株式会社佐世保玉屋)」
「佐世保玉屋五十年のあゆみ(発行:株式会社佐世保玉屋)」
※ご多忙な中対応して下さった株式会社佐世保玉屋総務部人事課の大坪さん、職員の皆さん、プレイランドのスタッフさん、佐世保市立図書館郷土資料室の職員の皆さん、誠に有難うございました。
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