雑談。死を意識すること

先週、久しぶりに心が深海の底の方まで落ちてしまった。

大人になってからここまで落ち込むことはなかなか無かった。

人は本当に苦しい時、同じような体験をしたことのある人間にしか相談できないのだなぁと改めて思った。
共感や励ましなど、無用なのである。
一緒に、深海に居る時の気持ちを話せる相手が必要だった。

悩みは大体ひとつの物事だけではなく様々な事が絡み合って漆黒の重たい塊になっている。

ひとつずつ薄めていって、少しずつ淡い黒にしていくしかない。

その日の私は、その作業をするのも諦め、なんなら毎分毎秒自ら黒を濃くしているような自暴自棄状態であった。

こういう時、相談できるのは妹だけだ。


とことん一緒に深海の話に付き合ってくれる。

私はかつて占い師に「性別を間違えて生まれてきています」と言われた経験があるのだけれど、妹こそ性別を間違えていると思う程、潔く、強く、逞しく、サッパリしていてカッコいいのである。

特に、自分の未熟さや弱さを直視して受け入れているところが凄い。
受け入れてこその強さだといつも見ていて感じる。

生まれ育った環境が同じ。
(当たり前だが)性格も歩んできた人生も全然違うけれど、重なる部分が誰よりも多いから誰よりも私が心を委ねられる存在だ。

悩みの内容は、人生の話。
(大人の悩みは大体がそうかもしれないよね)

生活、仕事やお金、漠然とした将来への不安(だが明確な根拠だけはあるような気がしているから厄介)などである。
(ありきたりな表現だが比喩ではなく)夜も眠れないほど、真っ暗な気持ちになる。

私と近しい悩みや経験を持つ妹は、私を励まし希望を抱かせるようなことはしない。
ただ一緒にいて、漂ってくれる。ありがたい。

話はいくところまでいき、最終的に「死」の話になった。



私は「死にたい」と本気で考えたことは無い。
思ったことなら数えられない程ある。

日頃から死に関心があり、分厚い哲学書などを読んだり、人と死生観を話したりしていた。

つい最近まで身内の人間が亡くなることもなく、人のお葬式に出席した経験も無かったので、直面する機会がなく単純に興味があったのも関心がある理由だと思う。

大学生の頃、頭痛が酷く動けなくなった事がきっかけで通院したら、鬱を発症していることが発覚したことがあった。
治療過程で心身ともに負荷をかけざるを得ない状況になり、追い込まれた結果、無意識に(≠意思などはなく衝動的に)死を選びそうになった。

その時まで、そんなことはあり得なかった。

幼い頃から傷付いたり辛い経験をしたりすることには慣れていた。
心や感覚を歪めることで環境に適応し、強い意志を持つことで自分を保ち生きることを選択してきた。

常に自分の人生に、意味や価値や目標を見出すことで、生きることを前向きに捉えてきた。
(理不尽な他者によって非のない自分自身を「死」に追い込まれることを悔しいと感じていたことも大きい)

だから、自分を強い人間だと思っていたし、選択肢の中に「死」が入ってくるなんて思いもよらなかった。

それから心を正常に取り戻し始めてから、より「死」に対する興味が増した。


「死」から遠い人なんていないのだと思った。
バランスを崩したら、誰でも死を選ぶ可能性が生まれるのだ。

人間という生き物はとても脆い。
体も心も、いつ壊れてしまってもしょうがないくらい繊細なものなのに、常に多少無理をして生きている。

幸いなことに、自分の意思で「死」を選びたいとは今でも思えないが、体が壊れることで心がそちら側へ引っ張られる経験をしてから、気をつけるようになった。

私は相変わらず、どんなに現実が辛くても「死」を選択肢に入れないというルールで生きている。


妹と、ちょっと本気でちょっと嘘のような約束をした。


「30歳まで同じような生活で同じような悩みをぐちぐち言っていたら、お酒と睡眠薬をたくさん飲んで海で散り散りになってマグロの餌になろう」


現実的に(?)一番苦しまない方法として妹が上げてきた方法で、本気でやるなら良いのかもしれないが、現実にそうしようという話ではない。

覚悟の話である。

「死」を選択肢に入れることは無いが、「ここで全てを終わりにすることができたら、どれだけ楽だろうか」と考えてしまうくらい辛い時はたくさんあった。今後もきっとある。無くなるわけがない。

どうせまた私は性懲りも無く深海の底へ行き、気まぐれに妹を道連れにするのだ。

そういう時、結局自分を生かすのは「死」を見据えて生きることなのかもしれない。

「どうせ死ぬならさ」という気持ちで、一旦悩みを片隅に置いてみる。
どうせ死ぬなら、今やりたいことをやってみる。
自分のわがままも許してみる。やさしい感情も、棘のある感情も、共存している自分を自分らしいなと傍観してみる。

そんなことをしているうちにいろんなことがどうでも良くなるかもしれない。

決して前向きには聞こえないかもしれないが、「どうせ私、いついつに死ぬんだし」と思ってやった方が、気楽に頑張れたりもする。


半分本気で、半分適当で。

私が海でマグロの餌になる前に、もうちょっといろいろやってみようかなと思う。

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