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エッセイストの肩書きほしぃ。 Vol.2 「ど感情・ど情緒人間のウチ、からだでするコミュニケーションに思いを馳せてみる。とりわけハグについて」

少し前、とあることで落ち込んだ。「我慢すればよかったかもしれないけど、わたしはわたしだから、わたしには嘘つけないし。でも、言葉にしない、という選択肢もあったよな。はぁ、ほんと無理...。」みたいな状態に陥ったのである。でも結局、この件は嘘をつかずに、相手に伝えてよかったことだった(Vol.1 テレパシーで交信できないなら、face to faceでいくしかないのだ、を参照)。

そんな時、友人から「自分にいっぱいご褒美あげてな🫂(ハグの絵文字こんな怖いのしかない)」というdmが届いて、なんて素敵なんだろうと感動した。詳しく悩みを話したわけではないのに、彼女の言葉は、私のすぐ隣にいてくれた。遠くに住んでいる彼女とは数回顔を合わせた仲だけど、短歌というもので繋がりはじめたこともあり、言葉が生むこころの距離が近い気がする。物理的にではないけど、優しくハグされた感覚になった。

優しくハグされた一番古い記憶はなんだろうと考えた。それはおそらく小学校1.2年生くらいの時。本当はもっと昔にあるはずなんだけど、明確な記憶がない。自分なりにとても怖いことが起こり、泣き怯えていたら、母親が私をぎゅっと抱きしめてくれた。不安が少しずつ溶けていき、「私は今安全な場所にいる」と思えた。

じゃあ逆に、私が誰かに、優しくハグをした一番古い記憶はなんだろうと考えた。これがまあ、それはそれは、まじで全然思い出せない。わからない。そもそもハグ=からだでするコミュニケーションと、昔は距離をとっていたと思う。無邪気に突っ走って、親の胸にダイブするみたいな快活な子ではなかったと思うし、ディズニーランドでミッキーにハグしている人間を見ると「うわぁ」と思うタイプのひねくれ幼児であった。ちなみに大学4年生の時、率先して喜んでミッキーにハグしに行くまでには成長?している。

ハグとは端的に言うと相手に「触る」ことである。小学校高学年くらいの時、ある子が、別の子のことを「あの子はすごいベタベタ手とか繋いできたり、腕を組んだりしてくるから苦手」みたいなことを言っていて、私は全然嫌じゃなかったけど、「人に触ることは、気持ち悪がられることなんだ」と教訓のように思った。今はそんな風に思わないけど、日本人として生まれ育っているので、「触る」という挨拶や愛情表現から疎かったこと、あとはハブられたくないという同調があったんだと思う。

2年前、私はある人に優しくハグをしてもらった。この記憶は鮮明で、優しい衝撃で、私はこの夜のことを絶対に忘れない。桑沢に入学した頃だった。中国出身のカメラマンの子と友達になった。最寄り駅が同じ路線で仲良くなり、その日は彼女の一人暮らしのアパートでお酒を飲んだ。本当にいろんなことを話したと思う。当時の私は、十割型嫌な経験やマイナスな感情からインスピレーションを得て絵を描いたり、文章を書いていた。それ自体は別に悪いことではないのだけど、不幸せであることが私の創作をいつも助けていて、幸せになることが、創作の邪魔になると思っていた。馬鹿みたいな話だけど「自分は幸せになってはいけないし、幸せになれない人間なんだ」と。満たされない、不幸せな状況を自分でわざと作り出している気さえした。そんな胸の内をなぜか出会ったばかりの彼女には、恥ずかしげもなく話せた。彼女にとって日本語は母語ではないから、全部が全部伝わっていなかったと思うけど、まっすぐな目で、「わかるよ」「大丈夫」と聞いてくれた。「悲しい感情は悪いことじゃないよ。でも、悲しいも楽しいも、ウェイトは同じなの。だから幸せな時にも、絵を描いてみたらいいと思う。あなたの幸せな時の絵が見てみたい。大丈夫。」そう言ってくれた。そして、その後少し間があって「ハグしてもいい?」と聞き、私を抱きしめた。不安が少しずつ溶けていき、「私は安全な場所にいる」と思えた。彼女は、私にどんな言葉をかけるよりも、ハグをすることで、気持ちを伝えることを選んだ。「言葉では伝えきれない溢れる気持ち」を私に向けてくれたんだと思う。そして物理的にも、「抱きしめられる、包まれる」という感覚は、ホッとして「安全」を意味するものだと、彼女はよく知っていた。彼女の優しさを改めて、身に染みて感じる。

からだでするコミュニケーションの最上の所に、セックスがあると思う。某SNSで「好き−セックス=愛」という男性心理の名言!みたいな動画が目に留まった。まあなんとなく言ってることはわかるけど、すこし悲しくもなった。男女の脳のつくりや個人差はあると思うけど、セックスをした後に残ったものが愛なんじゃなくて、はじめに愛があり、言葉では伝え切れない愛をからだで表現しているんじゃないのかな。前述した、カメラマンの友達の「言葉では伝えきれない溢れる気持ち」のように。(そして話は少し逸れるけど、この男性心理的「引き算論」がメジャーな考えになってしまうと、セックスにおいて男性が優位で、これが愛か愛じゃないかを決めるのは男だ、みたいな感じになっちゃう気がする。)他の動物とは違い、人間のみが快楽のためにセックスをすると言われているけど、それと同様に思考や情緒というものも、特別に備わっているんだから、相手を慈しむ気持ちが伴っているはずだ。行為と関係性が比例せずに悩む人が少なくないし、穏やかに愛したり、愛されたりするのが、困難なこの時代。「してる」のに、関係性が曖昧な場合、大事にされてないと思いがちだけど、「してる時点で、愛着がある」という考え方だってできる。そもそもこういうことで悩む人は、「かたち」じゃなくて、精神的な繋がりを求めていると思う。概念は安心する材料として便利だけど、自分の人生なんだから自分がよければそれでいいし、二人の正解が二人の正解だと思う。相手がフェアじゃない気持ちを持っている場合だけど、そういうのって、すぐにわかるし、即座に断ち切るのが無理でも、終末のタイミングは必ず訪れる。少し話がとんじゃったし、屁理屈みたいなこと書いてるかもしれない。私は女だからこういう風に思うのかもしれない。でも、セックスの結果として残るものが愛なんじゃなくて、まず愛があり、結果として、セックスがある。少なくとも私はそう思う。ていうか少しくらいそう思わせろ。

とにかく私が思うに、からだでするコミュニケーションは、話すことの代替というより、「言葉では伝えきれない溢れる気持ち」を伝える手段だと思う。私は今、心の底からの労いや、ありがとうを伝える時、仲直りをする時、泣いている相手に寄り添いたい時、友人やパートナー、大切な人たちをこの腕で抱きしめている。「大丈夫、ここは安全」、「私はあなたがとても大事」と、行為で伝えている。こないだの年末なんて、実家から東京に戻ってくる時、家族ひとりひとりと熱く抱擁を交わしたくらいだ(まあ若干ふざけ要素はあったけど)。昔では考えられないなあと思う。私は大人になって、私らしい私、を取り戻している。ど感情ど情緖人間の私には、言葉では伝えきれない溢れる気持ちがあまりにも多すぎる。「これから溢れちゃうであろう、届けるべき気持ちを、なるだけあなたに届けよう」、そう思うようになったこと、そしてそんなタイミングや相手が、今の私には確かに存在しているということ。それはとても幸せなことだと思う。

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