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グリーンブック:自分は黒人っぽくも白人っぽくもない。自分は何者なんだろう?

三歳のときすでに教会でピアノを弾いていたという、ドン・シャーリー。世間は黒人のピアニストを受け入れる準備ができていない、と言われ、コンサートピアニストになることを、あきらめた。

いやいやながら、ナイトクラブのジャズ・ピアニストになった。

シャーリーは深い文学的教養と博士号をもつ天才で、ハイソで誇り高い人間だった。実話である。

1962年、ライブツアーをしたシャーリーは、白人の運転手をやとった。特に南部では、あからさまな人種差別が激しい時代だったので、用心棒も兼ねてのことだった。それが、生まれも育ちもニューヨークはブロンクスの、イタリア系アメリカ人、トニー・リップ。

リップももともとは黒人と白人を、当然のように区別する人間だった。

シャーリーには、リップの粗野な態度が、耐えられなかった。リップは、乙に澄ました黒人のシャーリーが、気に入らない。リップは運転席に、シャーリーは後部座席に座り、二人の間には最初、何の会話もなかった。

しかし一緒に車の旅をつづけるうち、二人の間にあった氷が、次第に溶けてくる。

この映画を観ていて本当に怖ろしいのは、シャーリーがコンサートのために呼ばれて、演奏者として現地入りしているにもかかわらず、南部でかれがあからさまな差別を受けつづけることである。レストランで演奏することになっているのに、そこで食事をすることは、断じて許されない。

実際、ホテルでもレストランでもどこでも、黒人も入っていい、という場所を探すほうが、大変だった。だからグリーンブック、つまり黒人の入場を許可する場所のガイドブックができたのだ。それがタイトルの意味である。

あちこちで暴力を振るわれたり、ゲイクラブのようなところで捕まったりするシャーリーを、リップがまさに用心棒として、助ける。シャーリーは、文才のないリップが、妻に書く手紙を、詩的なラブレターに変えてやる。

この映画のミソは、まるで正反対のふたりが、お互いの違いを次第に受け入れ、吸収し、学び合い、助け合うようになっていくところである。

脚本の内容を準備したのは、リップの息子のニック。リップとシャーリーから直接聞いた話を、そのまま使っているという。シャーリーはニックに、自分は真実を話すし、それをそのまま使ってほしいが、発表するのは自分の死後にしてくれ、と言った。

一年半のツアーの後、リップはシャーリーをこよなく尊敬するようになり、まったく人間が変わってしまった。最初は黒人差別をしていたリップが、シャーリーという人間を個別な存在として畏敬するようになり、その結果自分の一般的な差別意識もあらためるように、なったのだ。

ふたりは死ぬまで良い友人関係を保ち、同じ2013年に、亡くなっている。

わたしが心をひかれるのは、こうした人間の変化、マインドの変化である。偶然一緒に旅をすることになった、まったく相入れるところのなかったふたりの人間性が、徐々に変わっていくというのが、うつくしい。

階級差も、人種差も、ふたりの個別の人間性のぶつかりあいや、コミュニケーションの繰り返しのなかで、融けていく。少なくともこのふたりの間では。

世間には、黒人を差別する白人もいれば、この映画が白人が黒人を助けるから結局人種差別だとかいった、批判をする人々もいる。

わたしがそのどちらにもくみしないのは、かれらが個別の人間を見ていないからである。一般論で、批判をしているからだ。

セリフのクライマックスは、シャーリーが、

「自分は十分黒人ではないし、十分白人でもない。いったい自分は何者なんだ?」

というところ。

ピアノの天才である誇り高きインテリというアイデンティティは、ステレオタイプには、黒人のものではない。しかし、自分がいかに高潔な人格だったとしても、肌の色は黒いので、ハイソなレストランにはいれてもらえない。

いったい自分のアイデンティティはどこにあるのか?と、シャーリーは悩むのである。

しかしそもそもなぜ、シャーリーはこんな悩みを持たなければならないのだろう。それは、白人はこうで黒人はこうという、ステレオタイプに則って、人々が批判や議論や差別をするからである。

シャーリーは黒人である以上に個別のシャーリーであり、リップは白人である以上に個別のリップでしかない、というのに。

本当に問題なのは、ひとりひとりの個性や人格や感情などを、ていねいに観察し理解しようとする姿勢が、ないことだ。

もしもすべての人が、ひとりひとりまったく異なる人々を、細やかかつしなやかに理解しようとするひらかれたマインドを持っていたなら、そもそも差別というものもなければ、差別批判の攻撃も、ないはずなのだ。

社会全体にそんな対応を期待するのは、もちろん無理な相談だろう。そして一般論というものが、存在しないわけでもない。しかしシャーリーとリップの間には、そういう化学変化が、現に起こったのだ。

この映画は、そういう個別な人間どおしのひらかれたコミュニケーションの中に、自由な社会への希望が潜んでいることを、告げている。

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