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信じること、受け入れること
以前にゆるすことからしか愛に至らないという記事を書いた。
ゆるし難いような恐怖や傷みをを越えてそれでもゆるそう、先へ進もうとする時には、大海原にえいっと飛び込む様な勇気をきっかけにして、けれどその時には全身の力で勇気を振り絞らなければ、できない気がする。
信じることもそれと同じかなと思う。
信じられないという気持ちはどこからくるのかというと、やっぱりそれも恐怖からの自己防衛。
信じて痛い目に遭った、信じたことで傷ついた傷つけた、という様なことも、少し時間を置いて信じてみる。だけど今度は信じ方がちがう、「また起きるかもしれない、また疑うかもしれない、それでも“信じる”を選ぶ私でいる」という感じだろうか。
信じると言ったって恐怖の中にいるうちは、自分や周りのことも信じられないのだから、信じようとするのは無理な気がする。
それはそのまま置いといて、どの自分でいるかを選ぶだけ。信じた結果がどう転ぼうと、信じられた方はそれが自分自身の場合であってもその期待を受ける必要がない。だって「信じるを選んだ私」がいればいいのだから。
勇気を出して “「信じるを選ぶ私」でいる私” って愛おしくないかい?
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