見出し画像

わたしが「支援」という言葉を使いたくない所以。

今週の福祉政策論の講義で、私は先生にこんなことを話しました。
「個人の価値観にすぎませんが、私はそもそも『支援』という言葉が好きじゃないんです。」

そして今日、また『支援』という言葉によって生まれる問題に心を痛める出来事に遭遇しました。

なぜ、『支援』という言葉を使いたくないのか。今回は頭の中を整理してみようと思います。

『支援』という言葉の意味。

まず、『支援』にどういう意味があるか考えてみましょう。Googleで検索。笑

支援とはこういう意味らしいです。

それでは、支援にはどういうイメージがあるでしょうか。

・困っている人がしてもらう
・してもらう人は弱い立場にある
・助けてもらっている

……他にも考えれば色々あるはずですが、だいたいこんな意見が集まると思います。

支援を受ける人間は、困っている・自分では解決できない弱い立場にいるから助けてもらっている。

こういう認識が生まれるのではないでしょうか?

また、支援をする人間は逆のイメージになるでしょう。

支援をする人間は、支援を受ける側の人間を助ける強い立場にいる人間だ。

『支援』という言葉を使うことによって、同じ人間であるはずが、支援をする側とされる側と区別されてしまうのです。

そして、支援をする側は「助けてあげている」という気持ちや、若干高慢的に。
される側は「助けてもらっている」という気持ちや負い目を感じる状況になるわけです。

すると、支援する側とされる側には、強い立場と弱い立場という関係が生まれます。

私は理想主義の夢想家なので、こう思うわけです。

「同じ人間であり、そこには上下も強弱もないのに、みんなそれぞれ助け合ったりすることは当たり前なのに、
支援という関係によって、人を分けることがあるなんておかしい!」

ただでさえ不平等な世の中です。
嫌な話だけど、色んな場面で上下関係は生まれています。もちろんそれによって差別も。

でも、この支援で生まれる関係性はそれぞれの意識やそれに伴う言動が変われば、人を区別することは解消できるのではないでしょうか?

支援関係ではなく、共に生きる仲間として

少なくとも、支援関係に疑問を持っているなら、わざわざ自ら支援関係を構築する必要は無いわけです。

だから私が代表をしているヒカリテラスでは、「支援」という言葉を使わない活動をおこないたいんです。

その根底には、支援を受ける側であった生きづらさ当事者の私が思う『支援』という言葉から生まれる上下関係や心理状態の問題。

そして何より、私たちも生きづらさ当事者だからこそ、お互いが共に生きる仲間として向き合っていきたいという想いが存在します。

生きづらさ当事者が感じる想いや価値観、苦悩は、社会を変える大きなヒントに繋がりますし、
同じように生きづらさを抱える人たちにとって、その想いは安心感やこれからを生きる上でのきぼうに繋がります。

だから、彼らを支援を受ける側の人間という位置付けにおくのは、おかしい気がしてならないのです……。

ついでに言うなら、私だって生きづらさの当事者だし。助けてもらわないといけないことだって沢山あるし……。笑

そういう気持ちが強いので、ヒカリテラスは支援活動ではなく、共に生きる仲間として関わり合う活動がしたいのです。


私は生きづらさや不登校にまつわる活動をする前、1回だけイベントをおこなったことがあります。本当に小規模のお友達作りのためのお菓子パーティーでした。

私は今でも、その当時の想いを持ち続けているのかもしれません。
「全国各地の色んな人と仲間になりたい。」

だから、支援という形にこだわりたくないのかもしれません。

ヒカリテラスという場所から、たくさんの仲間と関わりあえたら……、それはとても幸せなことなんだと思います。

締め方が分からなくなりましたが、本日はここまで。

P.S. 来週末、ヒカリテラスから大きなご連絡を致します。その時もnoteに想いをしたためますね!

最後まで読んでくださって、本当にうれしいです……♡もしよろしければサポートして頂けると、もっとうれしいです💕