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ジュンク堂池袋本店トークイベント「みて、かく --歌人と画家の対話--」記録

 2021年1月9日(土)、ジュンク堂書店池袋本店主催で、画家の三瓶玲奈氏をゲストに、『千夜曳獏』(青磁社)刊行記念オンラインイベント「"みて、かく" -歌人と画家の対話-」が開催され、約122名以上が視聴しました。以下その概要です。(サムネイル画像:三瓶玲奈「Fountain and the sun」、本人提供)

1 冒頭挨拶

ジュンク堂書店池袋本店・市川真意文芸書担当: 歌集として異例の売れ行きを誇る『砂丘律』の著者で気鋭の歌人・千種創一さん。前回(2019年)当店で開催したイベントで執筆中とおっしゃっていた第二歌集、『千夜曳獏』の刊行記念イベントを本日は開催します。千種さんは中学校時代、美術部だったそうです。そこで今夜はトーキョーワンダーウォール賞受賞により19歳でデビュー、活動を続ける気鋭の画家・三瓶玲奈さんをゲストにお招きし、双方のジャンルの「みて、かく」ことについて語って頂きます。それでは千種さん、三瓶さん、よろしくお願いいたします。

千種(以下、「千」): 只今紹介に与りました千種です。短歌を書いております。本日はたくさんの方にご視聴頂き、また、事前質問も多く頂き、ありがとうございます。

(1)三瓶玲奈氏を招いた趣旨

千: 三瓶さんは愛知県生まれ。日常の中で捉えた光景からその印象の元を辿り、繰り返し考察することで、人間の知覚についての絵画表現を追求しているアーティストです。

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三瓶玲奈「Park」(2017) 
(出典:https://www.reinamikame.com

 三瓶さんを招いた趣旨について説明したいと思います。短歌を書き続ける上で、他分野からの吸収が必要だなと考えていました。僕は中学時代美術部だったこともあり、吸収する分野として美術が浮かび、勉強しています。そんな中、幼馴染だった三瓶さんとSNSで再会しました。抽象と具象の間を揺れ動くような、まさに短歌のような画風で、美術から、そして三瓶さんから学びたいという思いから、本日、招待しました。
 また、SNSを見ていて、短歌愛好家層と美術愛好家層の親和性みたいなものを以前から感じていて、短歌の方には美術を、そして美術の方には短歌を、知ってもらいたいという野望もあり、この企画に至りました。

(2)三瓶玲奈氏の印象に残った短歌

千: 対談に当たっては三瓶さんに何冊か短歌の本を勧めました。大御所歌人ということで斎藤茂吉の『赤光』(新潮文庫)、同時代の歌人をということでアンソロジーの『短歌タイムカプセル』(書肆侃侃房)、そして評論ということで穂村弘の『短歌の友人』(河出文庫)です。これらを会場に用意頂いたジュンク堂さん、ありがとうございます。
 さて、三瓶さん、このあたりを読んで何か印象に残っている歌はありますか。

三瓶(以下「三」): 三瓶玲奈です。よろしくお願いします。千種さんにご紹介頂いた本の中で、印象に残った歌として2首選んでみました。

木もれ陽に水筒の中の真水さえそめられたるにくらきこころは 『水色の魚』正岡豊
草の実はこぼれんとして居たりけりわが足元の日の光かも 『赤光』斎藤茂吉

千: 渋い。なんでこの歌を?

三: この2首を読んだときに、自分が絵にするモチーフを見つけたときのものの見方に似ているなと思ったんです。私も実際に、草の実や木漏れ日、水面を描いているので、情景もとてもわかるし、それが絵じゃなくて文字で、短歌で、ここまで表現されているのはすごいな、と思いました。

2 歌人・画家の「みる」

千: 本日のテーマが「みて、かく」ということで、まずは「みる」についてですが、画家でいらっしゃる三瓶さんが、外的・内的世界をどのように「みる」か。それは歌人とどう違うのか、どう同じなのか。本日は千夜曳獏を話の肴にしつつ、そのあたりを話していきたいです。

(1)画家から見た千夜曳獏、現代短歌

千: まず率直な質問ですが、千夜曳獏をどう読まれましたか。

三: 以前、砂丘律も読みました。今回の千夜曳獏は、千種さんらしい本ではなくて、千種さん「らしさ」の本だなと思っていて、それは良い意味でも、少し悪い意味でも。なので、千夜曳獏のその後が気になります。
 というのも、砂丘律は一冊で完結した作品だったのですが、千夜曳獏は、歌人として一生かけてやっていく千種さんの道筋の中にある本だと感じました。なので3冊目、4冊目、5冊目と書いていく上で、すごく意味のある歌集だと思います。

千: なるほど、ありがとうございます。千夜曳獏だけでなく、確か正岡豊さんや小島なおさんの歌集なども読んだと仰っていましたが、現代短歌に触れてどのような印象でしたか。例えば美術に喩えてみると、どうでしょう。

三: 美術に喩えようって考えてみて、現代短歌は、明治以降の浮世絵という形式に似ているなと思い至りました。短歌でいう口語・文語の関係だったり、江戸・明治という時代区分だったりもそうですし、また、新しい技術や色彩を踏まえて、技術以外での目新しさや、現代ならではの表現をその形式の中で追求していくところに近さを感じました。

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小林清親「柳原夜雨」 (1881)
出典(https://600dpi.net/kobayashi-kiyochika-0000968/

(2)形式ごとの強み

三: 千種さんが、短歌という形式とともにどこへ進んでいくのか、また、最近は詩も書かれている千種さんの中での詩の位置づけなど、少し伺いたいです。

千: 千種にとっての詩と短歌の違いについては、これ、事前質問も頂いています。短歌も詩も自然発生的に書きたくて書いているので、自分の中でも明確な答えはないです。が、短歌で出来ないことを詩でやろうとしているというのがとりあえずの答えです。詩でも油絵でも短歌でも、どの形式であっても完璧なジャンルはないです。それぞれの形式に得意・不得意はある。だからこそ他のジャンルを勉強して学びたいなと思っているわけです。
 それに加えて、例えば三瓶さんのようなアーティストやアラブ人の作家の方と話すと、いろんなジャンルの共通の理(ことわり)みたいなものがあるなと気づくんです。それは例えば情報の削ぎ落とし方とか、戦争や震災が起きたときにすぐに作品にするのか、もしくは自分の中で沈殿させてから作品にするのか、すぐに制作できる/できないという論点もありますが、他のジャンルにも共通の問題意識があると思いました。

三: 短歌で出来ないことを詩でされようとしている、と仰いましたが、それでは、短歌でしかできないことって何でしょうか。

千: うーん、何だろう。「鋭さ」かな。

三: 逆にできないことは?

千: 長編小説、例えばハリーポッターみたいな作り込まれた世界観の構築というのは、短歌では短い分、なかなか難しいですかね。もちろん詞書(ことばがき)もあるので不可能ではないですが、向いているか向いていないかといえば、ハードルは高いかなと思います。
 でも短歌には、鋭く刺さるとか、暗唱しやすいとかの強みはあります。ハリーポッター全巻の全文を暗唱していたら、変態じゃないですか、メモリーどんだけあんだって話ですよ。でも短歌だったら、一首を覚えて持ち運べるというのはありますね。

三: 確かに、千種さんと話すと、例歌がすらすら出て来ますよね。

(3)永遠と刹那の共存

三: 千種さんの作品からは、現代美術作家のフェリックス・ゴンザレス=トレス(Felix Gonzalez-Torres)も連想しました。その話を千種さんにしたときの、解釈だったり、受け取ったものがとても興味深かったので、もう一度伺いたいです。

千: そうですね、彼の作品に、変哲もない二つの時計を並べた作品、「Perfect Lovers」というのがあって、とても感銘を受けましたし、同時にすごく千種っぽいなと感じました。

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(出典:The Felix Gonzalez-Torres Foundation

千: 作品の解釈ですが、同じ時計が並んでいたら、同じように時を刻みますよね。同じ工場で同じ歯車を使って作られて、同じ電池を入れられて、同じように同じ時を刻む。刻むはずなのに、それでも5年、10年と時間が経つにつれてだんだんとずれていって、いつかはどちらかが止まってしまう。それは恋人同士の関係の形にも重なります。美術館に並んでいるときには、この時計たちは全く同じ動きをしていて、永遠が表現されていると思うのですが、永遠の中に既に終わりの予感も含まれている。この作品には永遠と刹那が共存している。作り手がそれを作品にしよう、固定しようというのは、愛だなと思うわけです。

三: Gonzalez-Torresは人の不在や死に、作品を通じて永遠性を持たせるというか、悲しい結末に希望のようなものを与えている気がします。千種さんが、自分の作品の先に見ているものはありますか。

千: Gonzalez-Torresみたいにいつか失われる感情を永遠にしたいというのはあります。言葉は滅びない。一度覚えた言葉は忘れない。それを信じたいです。

三: 絵は物理的には滅びますからね…。

千: (笑いながら)いやいや、それはジャンルごとの長所・短所というやつで。

千: さて、千夜曳獏に関しては、三瓶さん宛てに事前質問を頂いています。「千種さんの短歌で1番心を打たれたものを理由と一緒に教えて下さい」という質問です。

三: かなり悩んで、絞りきれず、2首選びました。

雨の国、ただいま。湿った秋の陽を肺に吸い込む、せきこむほどに /千種創一

 千種さんが中東にいらっしゃった時期が長くあると思います。帰国したときの歌かなと想像したのですが、砂漠の国の方が、空気が乾燥しているだろうに、湿った陽をせきこむほどに吸い込むなんて、どれだけ吸ったんだろうと思って。そこに思いの大きさを感じ、そのときしか詠めない歌だと思って、外せなかったです。
 「湿った秋の陽」という表現も個人的に好きで。まぶしい・明るいなどと違って、陽の光が湿っているっておそらく体感しないと言えないものだと思うんです。

夜、縦の光はビル、横のは高速、都市化とは光の糸を編んでいくこと  /千種創一

 光を糸として見るには、カメラのシャッタースピードを調節するように一つの時間を夜じゅうだったり、かなり長く捉えなければならない。糸を編むという行為に、都市化とは反対の方向にあるような手仕事を感じる。手の中で編むのも、都市化も、人間の営みであると気付かされました。その光が、朝にはそれが幻であったかのようにほどかれることを知っていながら夜の編み目を見ている、都市化の空虚さがあると思います。

千: 舞台裏明かしでしかないんですけど、都市化の歌はロンドンにいたときに詠んだ歌です。雨の国の歌は、砂漠から成田空港に着陸して、飛行機からのあのアコーディオンみたいな通路を抜けるとき、いつも「うぉっ」って小さな声が出るんです。日本の湿気はすごくて、でも懐かしくて深呼吸したくなるんです。そこから着想を得た歌ですね。

(4)それぞれの「みる」(鑑賞編)

千: 「みる」関連では、三瓶さん宛の事前質問も来ていて、「三瓶さんは人の絵を鑑賞するとき、どのように見ていますか」というものです。

三: まずは絵だったら、筆致(ひっち)、つまり筆の使い方をまず見ます。筆使いは嘘がつけない。眠いなと思って線を引くと眠い線になるし、怒ったまま描くと怒った線になります。どうしても人間、筆に感情が出てしまうんです。

千: それは面白いですね。

三: そうやって感情が表出してしまうのを避けるために、他人に描かせるという方法すら出て来ています。感情はどう排除しようとしても、出て来てしまうもので、そこにリアリティがあるか、というのを見たいですね。

千: 短歌でも美術でも、感情を出そうと思っているわけではないのに、作品の片隅に出てしまう感情というのは、味わい深いです。昔、吉川宏志さんの歌集『青蝉』に「画家が絵を手放すように春は暮れ林のなかの坂を登りぬ」という歌を読んで、その比喩について考えているうちに、画家はどういう風に世界を見ているんだろうというのがずっと気になっていたのを思い出しました。

三: 私もその歌を知ったときは衝撃でした。千夜曳獏の中の、筆を折った人の歌も胸にくるものがあります。その次の歌がまた、制作者にとっては救いなのですが。

千: あの歌、自分で言うのも何ですが、きついですよね…。連作「虹蔵不見(にじかくれてみえず)」から、この歌ですね。

筆を折った人たちだけでベランダの季節外れの花火がしたい /千種創一
そしてその夜のことを記すため誰かがまた筆を執るといい /千種創一

三: 千種さんは、短歌だったり美術だったり、他者の作品をどう観ていますか。

千: 高校の受験とかで問題用紙配られて、すぐに1問目から解き始めちゃだめじゃないですか。まず最後のページまでざっと見て、時間配分を考えて、点数を取れるものから回答していきますよね。あれと少し似ていて、歌も絵もまず広く浅く鑑賞して、何か引っかかったものがあればさらに時間をかけて鑑賞します。お行儀のよい鑑賞法ではないかもしれませんが。

三: 展覧会だったら、一度最後まで観て、戻ってもう一度観るということですね。

千: そうそう。だから他のお客さんとか学芸員さんとかに結構ぎょっとされます。「この人、順路を猛スピードで逆走しているッ」、と。(一同、笑い)

三: その迷いのなさ、いいですね。短歌だとページを戻るんですか?

千: そうですね。最初に通読して、あとで気になった歌や連作を再読します。

(5)それぞれの「みる」(制作編)

千: 今、鑑賞、つまり作品を観る話が出ましたが、絵描きでも物書きでも、制作の前に現象なり感情なりをしっかり「みる」ことをしますよね。本日のテーマでもあるので、少し話しましょう。

 僕は、物事の本質を掴むために「みる」ことをします。当たり前ですが。例えば千夜曳獏にはこんな歌があります。

生きているあなたの息が見えるなら真冬も悪くはないので歩く /千種創一

 僕、今も手が冷たいのですが、冷え性で冬が苦手なんです。でも、ある日ある人と歩いているときにその吐く息を見て、その人の生きている証が見えるなら、冬も悪くないなと思い直したんです。「生きる」の本質が息をすることだと改めて「みる」ことが出来て。本質を「みる」のは大事だと思った出来事です。
 三瓶さんは描く前にどれくらい「みる」ことをしますか。

三: 私は描くものが決まったら、それをめっちゃ見ますね。普段からほぼ全ての情報を「目で」「見よう」としてしまう。目で見れば全部がわかると思ってしまっているところがあるかもしれません。見る次の段階が「触れる」です。例えば、中に水の入ったコップがあったとして、見るだけではわからない情報があります。すごく熱かったりその逆だったりは、コップの表面の水滴や曇り方などをよく見ると大体はわかるのですが、コップだったら思っていたよりは暖かかったとか歩いている地面だったら思ったより遠かったとか、見ているものと触ったものが一致しないことがすごく恐怖で。それらが一致すると感じられるように描いている部分もあります。情報を受け入れる器を作るような感覚です。

3 歌人・画家の「かく」

千: では次に、「みた」ものをそれぞれがどう「かいて」いるのかに移りたいと思います。

(1)「かく」ために情報を削ぐ

千: 僕は、リアルなものを書きたいです。それには情報を削ぐ事や偶然を盛り込む事でそのリアルが出ると思っています。
 短歌を書くのは、「カニッツアの三角形」を描くのと似ています。短歌は31文字という定型の制限もあって、100をかききることができないのですが、三角形が浮かび上がるように、10、10、10と角だけをかく。すると読者の側で補足して、100にしてくれるんです。でもその補う際に、三角形が150とか200になることもある。そこが短歌の面白いところ。もちろん、最初の30を書くときにも、しっかり物事を「みた」あとでないと書けないんです。だからこそ「みる」ことは重要です。

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カニッツアの三角形(出典:Wikipedia

千: 三瓶さんは「みた」ものをどう「かいて」ますか。

三: 私は「みた」ものをとにかく繰り返し見ているので、一度、情報過多になっているんですね。だからまたその情報をそぎ落とすために繰り返し描いていく。そうすると、最初に「みた」ものだけになっていく。それだけを「かく」。キャンバスは短歌の定型よりは多分少し大きくて、多くのものを入れてしまえるので、そこで入れすぎないように。

(2)どこで、いつ、「かく」か

千: やや抽象的な話をしたので、少し具体的な話もしましょう。どこで、いつ書くか、です。事前質問で両名宛に「朝、昼、夜、どの時間帯が一番好きですか? 創作活動はどの時間帯にされることが多いですか?」というのも来ています。
 僕は、寝る前、移動中とかに着想し、日中、空いているカフェで推敲したり、連作を編んだりすることが多いです。歌の一首がトランプの1枚とすると、連作を編むのはそのトランプでトランプタワーを組むのに似ています。連作編むには論理が必要で。夜、人はcreative(創造的)になりますが、あまりlogical(論理的)ではいられないと思うんです。

三: ああ、なるほど。

千: うん、だから推敲したり、連作を組んだり、論理が必要な部分は昼じゃないとできないと思います。特定の時間というよりは、時間帯でそれぞれの役割があります。

三: ちなみに千種さんは出先では何で作りますか。

千: 着想をメモるのは携帯が多いです。推敲はパソコンで行うこともありますが、白い紙にいろんなパターンを書き出すこともあります。一方で、さっきの冬の息の歌もそうでしたが、ほぼ推敲なくすらすらと歌が生まれる場合もあります。

三: それで思い出したのですが、以前、千夜曳獏の一首目「でもそれが始まりだった 檸檬水、コップは水の鱗をまとい」について伺った話がとても面白くて。

千: ああ、その話ですね。これは、新宿の地下にある大衆居酒屋で、歌人の𠮷田恭大と飲んでいるときに、興が乗って、即詠勝負しようよ、という話になったんです。彼めちゃくちゃ即詠うまいんです。飲みの場だから、紙を用意しているわけではないので、割り箸の紙袋をぱりぱりと開いてメモにして、目の前のレモンサワーの、確か夏の日だったので水滴がいっぱいついているジョッキを見て、その歌を詠んだんです。

三: 箸紙の裏に書かれた歌が巻頭歌になるとは。それはまだ持ってるんですか?

千: 捨てちゃったと思います。ものを持つのが好きではないので。

三: 短歌が電子データで保存できるところは、現代と相性がよいかもしれませんね。文字は残せますからね。

千: 三瓶さんはどういうときに描きますか?

三: 私の場合は、移動中やその休憩中に「みて」構想を練ります。そして帰り道などで、スケッチをすることもあります。ただ、油絵を描くのはアトリエですね。

千: 描く時間帯は?

三: 朝か深夜です。

千: ほう、朝というのは面白いですね。

三: 昼間は全く描けないですね。昼間は文章を書いたり、作品の写真を撮ったり構成を練ったりということをしていて、筆は持てないです。 

(3)「かく」ことの孤独

三: 「かく」ことは、よく「孤独」だと言われますが、どうですか。そのあたり。「かく」ことについて孤独は感じますか。

千: (しばらく考えたあと)人と触れ合ったときに感情が動いて、その感情を繋ぎ止めたい、永遠にしたいということで書くことはあります。でも一首に仕立てるときは、一人での作業ですよね。

三: なるほど、着想のときは人といることもあるわけですね。

千: さっき昼に描けないという話がありましたが、時期として描けないこと、いわゆるスランプはありますか。

三: ありますね。今年もあった。

千: 我々が絶対に遭遇したくない時間こと、スランプ…。どのように脱出しますか。

三: とにかく足と手を動かす。

千: 足を動かすというのは、旅をするということですか?

三: そうです。だから今年はあまり旅ができない状況だったので苦しかったです。

千: 平時だとどこに行くんですか?

三: 平時だと再訪の旅が多い。一度行ったところにもう一度行く。それができなかった今年は、「今日は左」って決めてひたすら左に行ったりとか。色々しました。

千: 左…! 観光地ではないんですね。

三: 観光地はあまり行かないですね。千種さんは、スランプありますか?

千: 僕は書けないということがあまりなくて、コンスタントに歌ができます。ただ、コンスタントにできてしまうというのは、常に書きたいものがあることで、書くのに時間を取られて、インプット、つまり他の人の本が読めておらず、このままだと先細りするのでよくないなと思います。贅沢な悩みかもしれないけど。いつか書けないときが来るのかなと思うと怖いですが。

三: かけない時間はインプットの時間だと思えば乗り越えられそうですね。

千: そのときは、乗り越えたい、ですね。そして積ん読タワーも崩したいですね。

4 SNS時代の「みて、かく」

千: 本日はリアルのイベントができない中でも、こうしてオンラインでできています。インターネットが社会に与えた影響はとても大きいですし、創作においてもインターネット、特にSNSが与えた影響は大きいと思います。SNS時代の「みて、かく」について少し話したいです。

(1)Google画像検索、Twitterのバズ

千: まずはざっくりとした質問ですが、三瓶さんはSNS時代にどう向き合いますか。

三: TwitterとかInstagramの画像で、行っていない展覧会の絵も先に見れてしまうということも出てきましたね。

千: 欧米の美術館だと、この世界情勢を受けてオンラインで所蔵を公開したりしていました。

三: そうそう。しかも高画質だったり、サイトが見やすくアレンジされていたり。よくも悪くもそれだけで満足しちゃう作品が出て来ると、作り手としては苦しいものがあります。また、自分自身もそれらで見た気になっていることはないだろうか、ともよく考えます。その中で、自分がどうするかというと、画像で見たけど、実際にも見たいと思って頂けるような作品を描くことを意識しています。短歌はどうですか。

千: 短歌が31文字と短いこともあって、140字まで投稿できるTwitterが短歌と相性が良いという見方があるんです。手前味噌ですが、例えば第2版まで行って品切れ状態だった『砂丘律』は、あるときTwitterでバズったことで知られるようになって、増刷を望む声が増えて、第3版、第4版に繋がりました。他にも、岡野大嗣さんや宇野なずきさんの歌もバズっています。
 SNSを通じて短歌が広がるのは短歌にとってありがたいです。でも同時に怖いというか、畏(おそ)ろしい、畏怖の念を覚えます。例えば或る1首がバズったときに、元の文脈が見えなくなることはないだろうかと思うわけです。本当は歌集の中なり、連作の中なりの、その歌の文脈があったはずなのに、その1首だけが一人歩きしてしまう。そしてほとんどの人は、元の文脈を見ようとしない、と。政治家の失言がワンフレーズだけ切り取られてメディアとかで爆発的に広がってしまうのと似ているんじゃないでしょうか。
 だから、我々がSNSに流れてきたある1首だったり有名人の発言だったりを目にしたときには、元の文脈も「みる」、文脈を見に行くことも重要じゃないかと思うわけです。

三: さっきの展覧会の話とも繋がりますね。見た気になる、読んだ気になる、というあたりが。

(2)千種文体と外国語

三: 千種さんの作品を読んでいく中でふと思ったのですが、千種さんの文体は、最初にテーマが提示されてそのあとに何か描写が来るような、バズりやすい構文が多用されている気もします。

千: 最初に言うときますが、バズらせよう思って書いているわけではないですよ(笑) 自分がアラビア語だったり英語だったり、外国語を学んできたことの影響が、意識的・無意識にある。日本語は、例えば、私は本を「読みます」なのか「読みません」なのか「買います」なのか「買いました」なのか、その文章の重要な情報が後ろに来る言語な気がします。他の言語、例えば英語だと、it is impossible to drink this bottle of water nowみたいに、先にimpossible(不可能だ)が来て、次にto drink water(水を飲むことが)みたいに続くとか、I drink .../I don't drink... (私は飲む/飲まない) water(水を)、みたいに、最初に飲むのか飲まないのかわかるとか、重要なメッセージが最初に来るような気がします。こういう語順の影響はあるかもしれないです。

(3)31文字は長いか短いか、遅いか早いか

三: 短歌は31文字と決まっているはずなのに、読んでいると、妙に長く感じるものもあったりします。逆にすらっと読めてしまうものもありますが。長い短歌って謎でした。先ほどの例のように、重要なものを後ろ回しにする日本語だからこそ、そういう長いといった感覚につながるのでしょうか。

千: 難しい論点ですね。でも、そうですね、短歌の31文字は長いですよ。よく「短歌は圧縮解凍システム」と言われることからもわかるように、僕らの身の回りにある「この橋わたるべからず」とか「燃えるゴミはこちらへ」みたいな文字列の31文字とは比べ物にならないくらい、圧縮されています。だからすごい長いなと感じることはあるでしょうし、それはうまく解凍できているということなんじゃないでしょうか。さらっと読める歌もありますが、それは、書き手が読み手の読むスピードをコントロールしているんだと思われます。例えば文語を使ったり、歴史的仮名遣いを使ったり、見慣れない単語を使ったりですとか、それによって読解の体感スピードを遅くできる、技というか、短歌の性質があります。

三: それは確かに。奥深いです。

(4)千種にとっての「わかりやすさ」

三: 千種さん宛の事前質問で、「どの程度まで伝わりやすさを重視しますか。twitterで話題になった歌はきっと多くの人に意味や感覚など何かしらが伝わったのだと思いますが、本の中にはそういう短歌ばかりではなかったのでお聞きしたいです」というものが来ています。

千: 伝われば伝わるにこしたことはないけど、伝わることが最優先事項ということではないです。一番大事なのは、自分が納得できること。人のために書いているわけじゃないので。
 読者によって読解力や人生経験が違うのは理解しています。雪国に生まれなかった人は雪のことあまりわからないでしょうし、海で育たなければ海のことはあまりわからないでしょう。
 自分の歌を並べたときに、自分でもこの歌は伝わりやすいなとかこの歌は少し難しいだろうなとかはわかる。だから、歌集や連作を編む際には、そのあたりの緩急をつけて並べて、読者が入れるようにしていく。

(5)三瓶にとっての「わかりやすさ」

千: 三瓶さんは「わかりやすさ」についてはどうですか。三瓶さんの絵には、これは赤い実だなとか、これは椅子だなとか、わかりやすいものもあります。一方で、絵の良さが伝わっても、モチーフがわからなかったり、その絵を描くに至った動機がわからなかったりするものもあります。わかりやすさは重視していますか。

三: 私の絵にはおそらく、そのままだと全くわからなかったり、ぐちゃぐちゃに見えるものもあって。伝わりやすさを意識はしますけど、伝わりやすさのために捨てるものがあったらよくないと思っています。なので伝わりやすさよりも、優先するものはある。昔の自分と比較して、全く伝わらなくてもよいとは思わなくなってきています。他者がいるから描くのかという論点にも繋がりますが。

千: 他者か…。僕は誰も読者がいなくても書くんだろうか…。書くんだろうな。ある瞬間の自分の感情を永遠にしたいから。

三: それは自分が読むために書くんですか。それとも残すために書くんですか。

千: 両方ですね。流れていってしまう感情を今把握するためでもありますし、未来の自分が読むためでもありますし。

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(イベントポスター 提供:ジュンク堂書店池袋本店)

5 視聴者からの事前質問

千: それでは時間もなくなってきたので、今まで触れていない事前質問にざっくばらんに回答をしていきましょうか。

三: いろいろ質問頂いていますね。「最近うれしかったことはなんですか」

千: ふらっと入った和菓子屋さんで買った黒豆茶が美味しかったこと。

三: 黒豆茶?

千: 黒豆からできていて、きなこというか、香ばしい味です。

三: これまた近いですけど、「最近食べたもののなかで美味しかったものはなんですか」

千: 鮎の甘露煮。甘露煮って魚の料理の中で一番好きです。あ、西京焼きも好きだ。基本的に、甘くって、辛くって、ジュってなってるの好きです。

三: 甘露煮って日本以外にもあるんですか?

千: たぶん、砂糖を使う料理って、日本料理以外にあまりないと思うんです。フランスの人参の砂糖煮みたいな例外はありますが。たぶん中華料理でも使わない…ですよね。少なくともアラブ料理では砂糖は使わないです。僕は料理専門家ではないですが。

三: 「すきな朝ごはんは?」 なんだか食べ物の質問が続きます(笑)

千: ホットケーキ。

三: 自分で焼くんですか? おしゃれ。

千: いや、生クリームとかはかけずに蜂蜜でシンプルに、ですよ。

三: 「歌を作る時にでてくる女性はどんな人でしたか」

千: 大切な人たちです。女性だけでなく同性もいますからね。これ以上は答えにくいので三瓶さんに振ります。「旅に行ったり、出かけたりすることは好きですか。旅行の思い出など、感銘を受けたことがあれば教えてください」

三: 出かけることはとても好きです。旅は、計画を立てるのが必要だと自由さが持てないので、目的地ができたときに行く。

千: 一人旅?団体旅行?

三: 一人旅。無計画だったり突発的であるがゆえに、基本的にはそうです。数人、その無計画さを共有している友人がいます。今のところ、弾丸は彼・彼女たちとしかなかなかできないですね。
 質問に戻って、感銘を受けたことというと、ベルリンからウィーンへ夜行バスで移動している時に途中のチェコで朝を迎えた時のこと。午前4時くらい、そこに空と大地以外、建物や木もほとんどないような風景で、地平線がえんえんと続いていて。その地平線が、直線ではなかったんです。しかも奥行きのある地平線で。

千: ああ、この向こうにも何か大地が続いているんだ、という線ですね。

三: そうです。その風景を見て初めて地球が球体である実感を持った、ぞっとするくらいに。それを日本に帰ってきてから絵に描きました。

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三瓶玲奈「Landscape」(2019)
(出典:https://www.reinamikame.com

千: 砂漠でも似た地平線を見ました。

三: 明るさはどうですか。

千: ずっと明るいですね。白夜というか感覚として、ぼーっと明るい時間帯が長いです。何もないから自分と向き合うしかない。壁がないので、音が散逸します。自分が喋っているはずなのに、何も喋っていないような感覚になります。誰も聞いとらんし、と思ってブルーハーツとか歌いながら歩くこともあるんですけど。歌っても声が出てる感じがしない。

三: ブルーハーツですか(笑)

千: ほら元気出るじゃないですか。バスを乗り間違えたことがあって、ある町に行こうとしてたら、え、その町には行かないよと言われて、降ろしてといったら砂漠で降ろされて。もちろん本当の砂漠ではないけど、砂漠の中をアスファルトの一本道がひたすら伸びてる、みたいな。不思議な時間でした。

千: また質問です。「感性を豊かにするために、行っていることなどはありますか」

三: とにかく「みる」。見るときには先入観を持ちすぎずに、自分の目で見ることを大事にしています。あとは、地面に咲いている小さな花を常に見るようにしている。

千: ほう、低い花ですね。

三: そうです。地面の花を見つけられないときとか踏んでしまうときというのは繊細さが失われているときなので、何も見えていないなと気づくのです。それが指標です。千種さんはどうですか。もともと豊かすぎるのかもしれないけれど。

千: まあ感性が豊かかどうかはわからないですけど、あまり研ぎ澄ませたくはないですね。見えすぎることがあって。たまに例えばシャワー浴びてて、腕の上の水の粒が流れて行くのが一粒一粒ぜんぶ見えちゃうとか。大変なんですよ。いつもではないですけど。情報をシャットダウンしなきゃ、考えないようにしなきゃ、見ないようにしなきゃ、と思うことはありますね。

三: それは年齢によって変わってきたりしますか。シャットダウンはできるようになってきたとか。

千: 最近できるようになってきた気がします。目や心を閉じる。それがいいことかわるいことかはわからないですけど。

千: もう一問いいですか。「三瓶先生が影響を受けた作品は何ですか」

三: (苦笑しつつ)「先生」は苦手。

千: (苦笑しつつ)僕もです。

三: 影響を受けた作品については、絶対にこれ、というのは言いづらいです。

千: 師匠みたいな人は?

三: 作る上で、(頭上を指差しながら)このへんにいるのは、ピカソ、クレー、マティス、近代の人たちです。でもそれは、作品そのものではなくて、制作スタンスの上での影響が大きいです。寝たきりになっても制作を続けるために切り絵にいったとか、とにかく何でも全部やるという姿勢だったり、です。この絵のこの表現に影響受けたというのは混沌としていて、まだシンプルに言い表せない。これからの課題の部分です。
 千種さんはどうですか。

千: 僕の場合は、この前亡くなった岡井隆さんですとか、魚村晋太郎、あとは同世代の𠮷田恭大あたりです。彼らから特に吸収しています。
 作る姿勢でいうと、同じくアラビアに関わっている歌人で、三井修さんという方がいて、その人の生き様というか、中東との付き合い方、短歌との付き合い方という点で、影響というか、習っています。

三: 短歌を詠む方は言語に堪能な方が多い印象があります。その流れでもう一問。「千種さんに憧れてアラビア語を勉強しています。さまざまな言語が頭の中に同時に存在しているというのは、とても興味深い状態だと個人的には思うのですが、他言語を習得していく中で面白いと感じたことはなんですか。」

千: 通訳・翻訳をしていて、ぴったりな言葉を見つけたときの感覚が、短歌で表現を見つけたときの感覚ととても似ています。
 例えばアラビア語でタダールブという単語があって、これ原義は「お互いに殴り合う」という言葉なのですが、なんやねんそれ、という感じですが、「情報がタダールブする」とか言います。情報がお互いに殴り合うってどういうことかというと、情報が錯綜している、矛盾している、混乱している、ということですが、そのあたりは文脈によって適切な訳を選びます。文脈に合った訳を見つけたとき、爽快です。

千: では返す刀で訊いてよいですか。「好きなのみものはなんですか」

三: コーヒーとお茶です。飲み物って他に何かありましたっけ(笑)

千: カモミール・ティーとか。僕カフェインが苦手なんですけど、この前、下北沢のとある書店の店長さんに「千種さんは何飲むんですか」と聞かれたときに、水、と答えたら心配されたことがあります。実際は、ハーブティー飲んでいます。それこそさっきの黒豆茶とか。

三: こちらは千種さん宛。「歌の発想が浮かぶのはどんなときですか」

千: 移動中とか寝る前に降ってくるときもありますし、掘りに行くと湧き出てくるときなどがありますね。

三: もう一問。「負の感情や記憶と向き合うとき、自分の心や脳みそが焼き切れるような感触があり、言葉が出てこないことがよくあります。先生は、言葉にしがたいかなしみや怒りを言葉にしなくてはいけないとき、どのようにご自分の心や脳みそと向き合われていますか?」

千: 僕も知りたいですね。向き合えないときは逃げますね。自分の中で沈殿させる時間は必要ですし。でも僕にとって歌を書くのは呼吸のようなものなので、ずっと書かないでいるとそれはそれで苦しい。まあ、バランスですよね。逃げる、戦略的撤退という選択肢を持っておくのも重要です。

三: 「三瓶さんの作品の中で一番好きな絵は?」

スクリーンショット 2021-01-08 午後9.40.09

三瓶玲奈「Fountain and the sun」(2017)
(出典:https://www.reinamikame.com

千: 「Fountain and the sun」が好きです。噴水と太陽、と訳すのかな。この絵を見た時に連想したのが、魚村晋太郎さんの「いつかまた出逢ふだらうか痛いほど細部を見てた頃の世界に」(歌集『花柄』に収録)」という歌です。表面上は、絵の中に描かれているのは、噴水の水の軌跡だけですが、同時に、この絵を描いた人が痛いほど噴水の水や光を見ている姿勢や集中力が伝わってきて、真剣なまなざしが漏れてくるのがよいです。

三: 鋭い指摘です。この絵は、噴水の軌跡を描く以上に、噴水の軌跡に乗った太陽の光を描こうとしていて。なので、水の動きよりもさらに刹那的なものを描こうとしました。描き切れているかはわかりませんが、そう言って頂いて、嬉しいです。

6 最後に

千: ではそろそろトークイベントの終わりも近いので、未来についての話をしたいと思います。

(1)作風を変化させること・変化すること

千: これは僕から三瓶さんへの質問なのですが、自分の作風を変化させること・変化すること、今後の方向性についてどうお考えですか。

三: 変化はどんどんしていきたいし、するべきだなと思います。固定されてしまうことの方が怖いです。今後の方向性はここではあまり語りませんが、社会的な情勢変化もあり、ゆっくり向き合い作ること、消費的に作らないことを今は考えています。千種さんはどうですか。

千: 僕も変わっていきたいと思っています。岡井隆さんもどんどん変わって行く人でした。
 砂丘律と千夜曳獏と読み比べてくださる方も割といて、どっちがいいとか悪いとか、もしくは中立的に違いの存在を指摘する人もいます。作者としては、違いに気づいて下さったのであれば、千夜曳獏は成功だったと思っています。砂丘律でやったことを繰り返したくなかったんです。砂丘律は売れたこともあって、ある程度、あの方法は成功だったんだと思うのですが、それをもう一回やって自分が納得できるかというと全然納得できないので。人は成功した方法で、やがて失敗すると言うじゃないですか。

三: いい言葉ですね。

千: いや僕もどこかで読んだか聞いたかなのですが(笑) 成功した方法で書き続けるといつかだめになる、というのがわかっているので、どんどん変わっていきたいです。そのためには、他のジャンル、美術とか詩を吸収することが大事だと思います。

三: 変わり続けるためにも、いろんな文化に触れて、また短歌に戻ってくる、というのは良いですね。どんな歌がこれから生まれるか楽しみです。

千: 方向性としては、猪突猛進、書くのみです。実は「鬼滅の刃は読みましたか」という質問も頂いていて、その漫画に猪の被り物をしたキャラが出てくるのですが、そのキャラのように猪突猛進、書くのみです。

三: あ、では鬼滅の刃は読まれたのですね。

千: はい。この前、献血ルームで途中まで読んできて。主人公が優しすぎて1巻とか2巻とかでボロボロ泣いちゃいました。絶対へんな人だと思われましたね、僕…。

(2)千種の告知

千: それでは最後に、いくつか告知を。

 現代詩ですと、最近「ユリイカの新人」という現代詩の賞を頂きまして、その受賞後第1作が載っている「ユリイカ」1月号が発売中です。
 また、短歌の方だと、ながらみ書房「短歌往来」1月号に33首を載せて頂いています。こちら入手しにくいので、ながらみ書房から直接注文頂くか、ジュンク堂含めて書店店頭で取り寄せ頂けます。(後日追記:AmazonでKindle版も発売されました)
 2月ですが、名古屋の書店ON READINGの短歌プロジェクト「ここでのこと」に、愛知県に縁のある歌人の一人として、短歌15首も寄せています。

 と、そうだ、いい忘れるところでしたが、年内には詩集を出したいと思います。

三: 詩集、楽しみです。短歌往来に載っている連作「Dog Year」は、個人的にもぜひみなさんに読んで頂きたいです。千夜曳獏とはかなり違った印象です。

千: 「Dog Year」を読んだ人からは、明るくなったと言われます。千夜曳獏、引っ張られるじゃないですか。獏、読んで、三瓶さん、大丈夫でしたか…?

三: 今回のイベントに合わせて読み込んでみて、結構きつかったです(笑) でも、それだけの力を持った歌集ということです。

(3)三瓶の告知

三: 私は、2月に愛知県豊田市で小作品のグループ展に出品の予定があります。
 また、5月には東京六本木Yutaka Kikutake Galleryで個展「線を見る」が開催されます。

(後日追記:1月23日〜2月4日、銀座 蔦屋書店にて、グループ展「愛すべきアートのはなし」が開催予定。)

(4)最後に

三: 本日はこの場に呼んで頂き、そしてご視聴頂き、ありがとうございました。短歌と美術の親和性というものが今日の話の尽きなさでも改めて明らかになったと思います。本日、画家の私が来ましたが、千種さんにはもっと他のジャンルの方とも話して頂いて、相互作用を通じて、文化全体がどう変わって行くのかというのもぜひ見てみたいです。

千: 実は今日は、話したい論点があと10個くらいあったのですが、尺に収まるように泣く泣く落とした経緯があります。やはり三瓶さんと話してみて勉強になりましたし、美術から学べるものがあると確信したトークイベントでした。

 ゲストの三瓶玲奈さん、サポートの𠮷田恭大さん、昨今の難しい状況の中、企画頂いたジュンク堂の皆様、砂丘律と千夜曳獏を出版頂いた青磁社の皆様、装幀家の濱崎実幸さん、この難しい装幀を丁寧に印刷頂いた創栄図書印刷の皆様、そして視聴者の皆様に厚くお礼申し上げます。本日はありがとうございました。

(↓ハートの「スキ」を押すとアラビア語一言表現がポップアップします。ミニ・アラビア語講座です。)

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