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本が美術作品になるとき(増本綾『届かなかった言葉たちを』)

 活版印刷作品を中心に制作する美術作家・増本綾が、京都・泥書房での個展「文字は立ち上がるか」(9/11〜17)において、写真を集めた美術作品『届かなかった言葉たちを』を発表した。本が美術作品になりうることを確信させる作品だった。通販はこちら

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1 はじめに

 このコンセプチュアルな作品を鑑賞するにあたっては、前書き(「前書き」と明示されているわけではないが作品冒頭に置かれた文章を本稿では便宜上こう呼ぶ)の共有が不可欠なので全文を引用する。この前書きを踏まえ、装幀、写真、"向き"について語っていきたい。なお、本文・サムネイルの写真は、特に断りなき限り、増本のTwitter投稿によるもの。

   届かなかった言葉たちを

恋人と別れた。
別れた後に何通か手紙を書いた。それは抗議文でもありラブレターでもあった。
しかし元恋人は手紙は読まずに捨てた言う。
そして二度と会いたくないとも言われた。

わたしはここ二年間ほど希少言語の勉強をしている。
使われなくなった言葉を拾い集め、辞書を引き、毎晩単語を覚え、
自分の育った文化とは全く違う文化の人たちとコミュニケーションしている。

しかしそんなことをせずとも
我々は同じ言葉を話し、考え、理解することができる。
わたしの嫌いな文法を勉強する必要もなく、Google 翻訳さえも必要ない。
同じ言葉を使っているのにもうコミュニケーションすることはない。

その夏わたしは大好きなイスラエルに旅立ち、
読まれずに捨てられた手紙を、街の約百箇所に展示した。
イスラエルの人口は約九二三万人、在留邦人は約千人、これは全体の〇.〇一〇八%ほどだ。
今や自分の言葉が希少言語になってしまった。

このプロジェクトを思いついたのはエルサレムの嘆きの壁に
観光客が願い事を書いた紙を挟んでいくという話を聞いた時だ。
わたしのようなユダヤ教徒でもない人間が願い事を書いて
叶えてもらえるのだろうか?
もしかしたら神様に読まれさえしないかもしれない。
わたしの手紙と同じように。

最終的に計百枚の手紙を街に展示することができ、計一八〇枚の写真を撮った。
経験したこともない空気に、捨てられた言葉たちも喜んでいるだろう。

イスラエルより、愛を込めて。     二〇一八年七月

2 装幀

 増本は、表紙の紙について「フリッターホワイトの紙で砂漠の砂を表現しました」と説明している。この紙にはゆるやかな自然な凸凹があり、これがインクのムラを生み出し、それはまさに飛行機で砂漠を上空から見たときの様子とそっくりとなっている。白抜きの題字がかすれているのも、示唆的だ。
 同時に、この紙のインクの乗っていない白い部分は、大理石に似ている。大理石は、その加工のしやすさから、中東で多くの建物に使われている。 

 砂漠や大理石を思わせる点で、内容に調和した装幀となっていると言える。紐で綴じた部分がむき出しになっているのも、作品内容の痛々しさと調和している。前書きも踏まえると、この紙が墓石の表面のようにも見えてくる。

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3 写真

 写真については、作品の重要な部分なので、ぜひ実際に手に取って御覧頂きたい。砂漠、ブランコ、ベンチなどに置かれた手紙の写真たちは、不在感・不能感を伝えてきて、痛ましい。どの写真も胸に迫るものがある。写真が撮影されたという2018年から、この作品が発表される2021年までに4年の年月を要していることからも、その痛ましさは伝わる。

 頁をめくっていくと、あることに気がつく。最初の写真は、鮮やかなブーゲンビリア(中東で春から秋まで咲き続ける赤い花)が咲き誇る中に手紙が置かれている彩度の高い写真だ。最後の写真は、日没前/夜明け前の空き地の岩の上に手紙が置かれている彩度の低い写真だ。この対比では偶然ではなく、最初の写真から最後の写真までめくって行くと、どんどん彩度が失われて行く配置になっていることに気がつく。

 この作品には、ごく事務的な奥付を除けば、上掲の前書き以外、文章や説明は一切ない。だからこそ、写真たちが彩度を失っていく様を見て、気がつくのだ、痛ましい記憶は静かに彩度を失っていくものだ、と。

 前書き(事実かどうかはどうでもよい)を踏まえれば、この作品の制作動機は個人的な記憶の埋葬かもしれないが、その埋葬に取り組む姿が真摯なとき、その姿は普遍的な文学性を獲得する。

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4 作品の"向き"

 この作品は、横書きの本のように右から左へ開く。なのに、前書きは縦書きとなっている。よって、下の写真(千種撮影)のように、やや奇妙なことになる。商業出版であれば大事故物件だ。

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 活版印刷工でもある増本は、造本を知り尽くしていると思われる以上、この配置が素人的なミスであるはずがない。そこには間違いなく意図がある。

 表紙を開くと、前書きを見つける。前書きは右から左、すなわち、本の始まりの方向へ向けて、終わる。前書きが内容として過去について話す一方で、前書きは物理的には本の始まりに向けて終わっている。普通ではない時間の逆行がそこにはある。

 思うに、上記のような奇妙な構造は、文字方向(縦書き、左←右)を敢えて本の進行方向(左→右)に逆行させることで、恋人との別れという主題を持つこの作品に、過去ではなく未来へ向かう力を与えている。こんなに過去の埋葬が前向きであることがあっただろうか。ここも、人間賛歌であるという点で、文学的だ。

5 最後に

 本稿冒頭で、この作品を「美術作品」と呼んだが、この作品をよく見ない人は単なる「写真集」と認識するかもしれない。
 しかし、上で確認したように、①写真舞台と装幀の調和、②写真一枚一枚ではなくその彩度順の配置による喪失感の表現、③本の方向に逆行する前書きによる未来志向の表現、などを見れば、この作品は、写真集(=写真の集まり)ではなく、①〜③が渾然一体となった美術作品だとがわかる。そして、本が美術作品になりうることが確信できる。

 ユダヤ人の一派が迫害の末にたどり着いた地で「イスラエル」を建国したという歴史を見るとき、この作品において恋に破れた(もしくは恋に破れたという設定の)作者が「イスラエル」へ向かうのは、何とも象徴的だ。一方で、「イスラエル」が歴史的に内包している暴力性には留意する必要がある。いや、留意しつつ考える、そもそもどの国家も、また恋も、暴力的なものではないだろうか、と。

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