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開かれた記録性(松本実穂歌集『黒い光 二〇一五年パリ同時多発テロ事件・その後』)

松本実穂歌集『黒い光 二〇一五年パリ同時多発テロ事件・その後』(2021年、角川書店)は、社会に開かれた記録性を持つ点で、重要な歌集と言える。

その名のとおり、歌集は、2015年に起きたパリ同時多発テロ事件など一連の事件を背景にした生活を扱っている。しかし、歌には押し付けがましい非難はなく、抑制された風景描写・心理描写が存在している。

シナゴーグ前に並べる警護兵のひとりひとりの低きBonjour(こんにちは) p15

催涙ガスにのどふたがれて走りをり息すればわれぼろぼろこぼる p140

シナゴーグはユダヤ教の礼拝所であり、宗教施設はよく攻撃の対象となるため、事件を受けて警戒が強化されたものと思われる。本来挨拶というのは警戒心を解くために交わすものであるのに、歌の「低き」という語から、警護兵の解けない警戒心が伝わってくる。

乗り換への人の流れを割く岩のやうに座れりシリアの母子 p106

信念と諦念といづれ 道のなき砂漠を走るトラックを思ふ p51

2012年にシリアで騒乱が勃発すると、やがて600万人以上が難民となって国外へ流出した。難民はフランスにもたどり着いているが、その一部は駅などで物乞いとなっている。母子の歌は、群集が彼らを避ける様子を描写している。群集を水のように描くことで、街ゆく群集の難民への無関心をよく表している。

2015年のパリでの同時多発事件では、130人以上が死亡した。死者や負傷者の苦しみ、その周囲の者の悲しみは計り知れない。犠牲者らはシリア・イラクでいわゆる「イスラーム国」を空爆してきた仏軍兵士ではなく、非戦闘員の一般市民であるから、テロとして断罪されるべき事件である。

一方、「テロ」は未だにその定義が曖昧で、強者が刃向かう者を一方的に「テロリスト」としてラベリングして弾圧する手段にもなってきた。同事件の実行犯の側は、「直接の悪は自分たちの理想郷を空爆する仏軍兵士であるが、税金などでその仏軍を支える一般市民も間接的に悪である」というようなよくある論理で犯行に及んだものと思われる。その論理が正しいかは別として、実行犯の側にも一応の論理や「正義」があったと言える。

「テロ」は実は、その定義が曖昧である以上、全ての「テロ」を無思考に断罪してしまっては、強者のラベリングに加担してしまうこともありえる、扱いの難しいものである。

作者の松本は、いわゆる「テロ」を安直に断罪することはせず、一生活者として、パリの暮らしを客観的に描いている。もちろんある場面を切り取るという作者の編集を通じて、作者の意図が滲む部分もあるが、客観的な詠みぶりにより、歌集が作者だけの安い価値判断の記録へ閉じることなく、社会へ開かれた記録性を獲得している。

祖国とは土地か言葉かシャガールの絵に浮かびゐる馬と花嫁 p48

国籍を再び問はるテロ警戒巡視パトカー戻り来しのち p92

上掲の歌や、既述のシリアの母子の歌に見られるように、移民への関心も示されている。日本社会でも今後移民がますます増えていくことが予想され、移民への向き合い方を考えるとき、これらの歌は一定の足がかりになると思われる。その意味でも、この歌集の開かれた記録性は貴重なものとなるであろう。

以上、敢えて社会的な視点から書いてきたが、以下のようなパリらしさから離れた、詩的な歌についても紹介しつつ、筆を置く。

ウィンドーに映る女の奥行きに鳥らしきもの少し歪んで p62

みづうみの昏きへ下るひらさかに影を落として肺魚はゆけり p76

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