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ベルリン演劇の講義10

慶應義塾大学久保田万太郎記念講座 現代芸術1
第10回授業(7月6日)

1、前回のフィードバック

別紙1・別紙2(noteでは公開なし)に前回のレポートをまとめました。田中奈緒子さんとトーマス・レーメンさんから、のコメントが入っています。かなり丁寧に、心を込めて書いてくださっているので、よく読んでください。また、みなさんのレポートを踏まえ、田中奈緒子さんとトーマス・レーメンさんに質問を作ってお渡ししました(別紙3)。こちらもじっくり読んでください。ドイツで活躍されるアーティストのお二人が、自身の作品について、あるいは広く芸術論について語る際、いかに厳密かつ明晰な態度で言語化していくかが、よく分かると思います。お二人に質問があったら授業の途中か最後に話しかけてくださいね!


●学生からのレポートを元に、トーマスと奈緒子さんへの質問を作りました。

1、映像を見て「現代芸術は、わかる人にだけわかればいいものなんだろうか?」と悩む学生が毎回、何人かいるようです。芸術を創る上で「わかる人にだけわかればいい」と思いますか。それとも、自分の作品は誰にとっても身近なものであるべきだと思いますか。

<田中奈緒子さんより>
まず前提として認識しておかなければいけないのは、生活環境、文化環境、思想環境の違いは作る側にも受け取る側にも絶対的な影響を与えているということです。だから作品と鑑賞者の出会いの中で「わかると思う」「わからない」「何を言おうとしているんだ?」という、齟齬というか不安定な空間が生まれるのは当たり前のことです。
私自身は造形芸術の分野で教育を受けたので、一つには、芸術表現の歴史の文脈を配慮する「この文脈を分かる人に向けて」という作品の作り方・在り方も理解できるし、読み解く面白みがあるのもわかります。でも私はその作り方には立脚していません。それでも、そのような文脈のカテゴリーを外したとしても、そもそも(近代以降)芸術表現というのは作る者の主観的な体験や感情を材料にしているのだから、どうやって「誰にとっても」身近なものになり得るのか、というのはある意味全ての芸術家にとっての命題なのではないでしょうか。
それでも、一人の表現者としての試行錯誤の上で、私の求めるのは、誰にとっても開かれた作品だと言うことができます。そしてそれは終わりのない挑戦だし、そこは言ってみれば何が育つかわからない広い野原のようでもあります。
なぜかというと、上にあげたその表現者と鑑賞者との間の不安定な空間は、可能性の空間であり、そこでは発信する側と受け取る側という一方方向の関係性ではなく、逆転現象のようなものが起こることを私が実際に体験して来たからです。 これはセオリーではなく私の実体験で考えたことなので、長くなりますが私の個人的な体験を記させてください。
ドイツを拠点として活動し早20年以上になるけれど、私のアーティストとしての履歴は、字面だけ見れば純粋な美術家としての道を貫いて来たように見えたとしても、実際には寄り道や回り道ばかりしながら、やっとの思いで独自の道を切り開いて来ました。99年にデュッセルドルフ芸術アカデミーに留学した当時、私の認識する世界はまだとても小さなものでした。芸術によって何を動かすことができるのかなど全くわかりませんでした。私が師事したイエテロヴァ教授はチェコ人の女性アーティストで生粋のフェミニスト、プラハの春を経験し80年代にドイツへ亡命してアカデミーの教授職まで登りつめた彼女が自分のクラスに取る学生の大半は外国人で、旧ユーゴスラビア、旧ソ連、旧東ドイツ出身の若者たちが多くを占めていました。その何人かの旧共産圏出身のクラスメイト達と日々つるみながら共に学び、様々な芸術談義や交流の中で、私は幾度も目からウロコが落ちる体験をしました。彼らの多くは、自分が生まれ育った国が崩壊していく真っ最中に思春期を過ごしていた。その理想が失敗し崩壊したのだとしても、ある(資本主義以外の)別の社会モデルが可能なのだ、というアイデアが現実として存在していたこと。彼らと過ごす時間の中で、私は現行ののっぺりとした経済資本主義システムを外から眺めてみることを少しずつ培って来たように思います。作品のアイデアひとつでも、自分自身の中から発していると思いこんでいたイメージや考え、暗喩などが、無自覚な多くの影響のもとに形作られたもので、場所を変えれば全く伝わらない、また別の意味で捉えられるということも体験し理解しました。これはハードでしたが、このアカデミーでの時間で、アーティストにとって不可欠な、様々な既存のシステムや価値体系から一歩距離をおき世界を相対化する態度の基本を学んだと思います。
ただ、こういうことを全て踏まえて、さて、あなたは何を表現したいのか。できるのか。これは非常に難しく、私は模索を始め、苦しみ、「自分自身の表現」を見つけるまで、それから10年ほどの時間がかかりました。その間も制作はしていたし、コラボレーションなども含めたくさんの作品を生み出していたけれど、どこかで、自分の外にある何かに依拠しているような気がずっとしていたのです。ある言説や、はじめから作品の意義を立証する理論のようなものに。はたまた、社会が、業界が、周りの誰かが求めているであろうものに応えるという思い込みに。それらを全て捨てるのには勇気が入りました。しかし様々な状況から、ある挫折があり、私はまっさらに自分自身から始める必然性の中に投げ込まれました。海のものとも山のものともつかないまま手探りで、1年以上かけて作った作品が、インスタレーションとパフォーマンスが合致した作品「Die Scheinwerferin」です。作品の詳しい内容について触れることは長くなるので避けますが、この作品は、シンプルな構造の中にたくさんの重要な問いかけが詰まっています。一つだけ、タイトルについてなのですが、これは造語です。ドイツ語で投光器を意味する「Scheinwerfer」、これは男性名詞なのですが、これに最後にinをつけて女性化してしまい、同時に道具を人格化しています。これによって、「投光器さん」といったニュアンスが生まれ、そしてさらに「Schein(仮象)」を「werferin(投げる女性)」という意味になります。このタイトルを初めて聞くとドイツ人は皆ふっと笑います。実際、投光器というのは舞台作品に置いて決定的な役割をしています。舞台上で演じられている仮象を演出し、ここを観ろ、このように観ろ、と誘導しますが、投光器自体は隠されています。私はその、作品と観客の関係性の一方方向的な構造をあらわにし、象徴的に解体してみたかった。私自身が投光器さんになり、自分の内部世界に潜りそれをさらすと同時に、観る者にも同じように光を、仮象のイメージを投げかけ、その個人の物語を問うような行為です。これはビデオで記録できる作品ではないので、説明することしかできませんが、空間全体は光と影に包まれ、文字通り観客も私のインスタレーションと等価にその投影対象になり、いやが応にも作品世界に組み込まれていきます。
この作品を1作目として、光と影、世界を見る・認識するというテーマを深め、3部作品を制作しました。これらの作品は反響を呼び、その後数年にわたり様々な国の観客の前で公演する機会に恵まれました。そして公演を重ねていくうちに私は、面白いことに気がつきました。公演の後、必ずと言っていいほど観客の誰かが私のところへやってきて、素晴らしかった、と言う ― それはよくあることだと言えます。でもそれだけではなかった。人々は私に彼らの見た/体験した世界を話しに来るのでした。メールをもらうこともよくありました。作品はまるでロールシャッハ・テストのようにして人々の心情や記憶を映し出しました。ある人は火の海や草原や洪水を見たし、ある人は森の中を彷徨い、またある人は子供部屋で一人で天井を眺めていました。イタリアでは訛りの強い英語で、スペインではおばちゃんが身振り手振りを添え、セルビアでは内気そうな青年がおずおずと通訳を連れて私のところへやって来ました。そして多くの人が語るのは、子供時代に感じたことや体験した風景、世界とのつながりの中で大切にしている感覚などでした。それは誰かが大事な宝箱を開けてひっそりと中を見せてくれるのに似て、とても個人的であったけれど、私はその豊かさに打たれ、心を動かされました。(私がそれらの創造的なイメージから得るものがすごく大きいので、のちに、公演の後に毎回アーティストトークとは名ばかりの実際は観客の言いたいことを言ってもらう交流の場を設けていました。)私の投げた仮象のイメージは、まさに影であり、その時だけあって、消えてしまいます。公演後の舞台には、インスタレーションだけが残っています。その残骸を眺めながら、多くの観客はいつまでもその場を離れようとしなかった。そして誰かの記憶の中で、心の中で、何かが動いてプロセスが始まる。繰り返し繰り返しこのような体験を重ねる中で、私の中に今まで観念としてだけあった「作品と鑑賞者の間にある有機的な空間」の存在は確信に変わりました。そこでは鑑賞者もイメージを生産し、創造的で、独自のプロセスが生み出されます。以前は、正直に言うと、鑑賞者の中の創造的空間など想像はするものの、私には確信などなかったのです。他人の頭の中は見ることができません。もちろん、私の作品世界を閉じたものと感じる鑑賞者もいるし、プロセスが生み出されないことも多々あるでしょう。
作品と鑑賞者の関係は一方方向ではないのです。その空間はしかし繊細に構築されなければならないし、それぞれの芸術家、作品によって違った形をしています。
そして優れた作品ほど、その空間への戸口は広くて、様々な文化背景や時代を超えてそこに入ることを許します。そこは芸術のユートピアであるような気がしますが、私自身、その空間に入れるように、ずっと試行錯誤し続けている感覚です。作り手はそのきっかけを起こす装置を精魂込めて作り出す。しかし究極的には、鑑賞者の内に生まれ育つその「何か」こそ、本当の作品―アートそのもの―とは言えないでしょうか?

<Thomas Lehmenより>
The word "understanding" is the most misleading word used to describe communication. Since it is impossible to understand something or someone the exact same way, it only can lead one to gain orientation to act, but this is much more than repeating the same.
I like to speak of participation. People who share, but think and make their own decisions, have a common understanding of something. When this base is reached, people are usually more able to accept and "understand" art.
We must differ information from content. Both have very different styles and techniques of communication, which influence our way of thinking. But they are not the same and should not be confused with each other.
Knowledge can help to "understand" something, but not everything one understands can be taken into knowledge.
「理解」という言葉は、コミュニケーションを表すために使われる最も誤解を招く言葉です。人やものを決まった同じ方法で理解するというのは不可能で、その都度行動の方向性を獲得するので精一杯になるわけですが、これは同じ方法を繰り返すよりもずっと意義あることです。
私は参加することについて話すのが好きです。シェアはするけれど、自分で考えて決断を下せる人たちの間には、何かしら共通理解があります。この基本を共有できれば、いつも、もっと芸術を受け入れ、「理解する」ことができるようになります。
私たちは、情報と内容を区別しなければいけません。その二つのコミュニケーションは、スタイルも技術も大きく異なっており、私たちの考え方に影響を与えます。しかし同一ではなく、互いに混同されるべきではない。
知識は何かを「理解する」のに役立つが、自分が理解しているすべてのことを、人は知識として取り入れられるわけではありません。
(訳=千木良。トーマスさんのお話形而上的なんで、訳すのが難しい。私の訳は下手くそなので英語読める人は自分で読んでくださいー!)

2、(トーマスに)あなたの活動は、オーバーハウゼンの町の活性化に効果があると思いますか? 日本にも過疎の町は多いですが、地域の町を活性化させるためにアートは何ができると思いますか?

<Thomas Lehmenより>
This is lots of work and it needs a lot of support and political will. If this is provided, yes. But here is the point: we talk about cultivating an independent culture. This does usually not go conform with the needs of a commercially trained society. To understand a vivid and uncontrolled cultural practice as a stabilization for society, therefore the "understanding" in the political system is not found yet.
これは大仕事で、多くの支援と政治的意志を必要とするものです。それらが十分に提供されている場合は、「イエス」です。しかし、重要なポイントは「独立した文化を育てること」です。これは通常、商業的に訓練されてしまった社会のニーズには合いません。生き生きとしたコントロールのできない文化的慣習を、社会を安定化させるものとして理解する方法、つまり今の政治システムの中で「理解する」方法はまだ見出せていません。

3、(奈緒子さんに)作品内で、主人公である女は夢の中、あるいは精神世界を彷徨っていたように見えた、という学生がいました。精神の旅の経験を通して、主人公が迷いや無知などの状態から目覚め、何か気づきを得たという構成ではないかと解釈したようです。作品の始めと終わりで主人公(あるいは作者自身、あるいは見ている観客)の心の状態に変化があることを想定して作っていますか? それとも変わらないでしょうか? つまり、時間の変化は作品内にあるのかという質問なんですが。

<田中奈緒子さんより>
作品内で時間の変化はもちろんあるのですが、それは現実世界での因果関係のように一方方向に流れるものではないと考えています。作品においての時間というのは観客の意識の中で創造されるものなので、制作においては常にそれを念頭に置いて、注意深くそれを引き伸ばしたり、濃縮させたりといった実験を行います。この作品の場合は特に、非常に単純な構造(探索、迷路、袋小路、脱出と言ったような)をベースにしていますが、それを一息で話し切る勢いの中に、内部空間に垂直に広がるような時間を意識して作りました。なぜなら、精神世界の時空間は私たちの日常で認識している時間軸とは全く違う姿をしていると信じるからです。イメージとしては、日本で最も古い時計とされる水時計があります。箱が水で満たされることである一定の時間を測る、空間的な時間の掌握です。過ぎた、と思った時間も、層のように重なり合って 空間として存在している。そのようなことを考えていました。
実際に、影のイメージは縦横無尽で、空間内を自由に動き回りますが、時間のあいだも自由に動き回っているのです。作品を鑑賞した人が私にそのイメージを話すとき、それはまさに空間的時間の記憶というように、因果の連なりでなく、重層的に重なり合う一つのボリュームを持ったもののようです。

4、千木良からの質問です。
私は、この春から現代舞台芸術の講義をしてきて、今回は10回目になります。それでも、未だに「現代アートはわからない。意味を求めず、感性で受け止めるしかないのか」というレポートを、毎回のように受け取ります。最初は「わからないままでもいい。あとで思い出して新しい発見をすることもあるから。楽しんで見てください」と伝えてきたのですが、正直、少し残念に感じるようになってきました。これは私自身の進歩なのかもしれませんが。
私はこの授業で、現代芸術と社会の関わりについて解説してきました。王や貴族が富を独占していた社会から、一人一人が主体的な存在として政治や社会に参加するという名目の、いわゆる民主主義社会に移行していったこと。現代の民主主義がうまく機能していないながらも、このような変化の中で、現代芸術が生まれ、今も発展を続けていることを説明した。
初回は、Gorki Theater の「Grundgesetz」という演劇の映像を見せました。基本的人権の概念と近代憲法の成立について解説し、東西ドイツ統一の顛末を話しました。Meg Stuartの作品を見せた回では、クラシック・バレエの権威が否定され、コンテンポラリーダンスが誕生したことを解説しました。イザドラ・ダンカン、マーサ・グレアムから、イヴォンヌ・レイナー、マリー・ヴィグマンのビデオを簡単に紹介しました。また、ベルリンのTheater Thikwaのビデオも見せた。これは障害者と共に作る「Integrationstheater」で、私はリハーサルにも参加しました。演出家にインタビューし、障害のあるメンバーの一人一人の主体性を重んじて作品を作ろうと試行錯誤している様をうかがい知ることができました。
今回、トーマスの「失業者バレエ団」を見てもらう前には、もちろん参加者が報酬をもらってアートを作る、というコンセプトを伝え、マニュフェストの翻訳も渡しました。また、参考にヨーゼフ・ボイスの「社会彫刻」の概念について少し説明しました。「全ての人が芸術家であり、未来の幸福のために社会を彫刻する義務がある」というボイスの思想は、ドイツの現代芸術を鑑賞する上で、知っておくべきように思えたからです。
講義に対して、ポジティブな刺激を受けている学生も多い中、やはり社会と芸術の結びつきについて、日本の学生に教えるのは難しいです。今、日本の義務教育で、現代アートについて学ぶ機会はほとんどなく、近代史や民主主義の成立の歴史もあまり教えられません。
トーマスのマニフェストにあったような、「私たち一人一人が社会的な存在であり、また芸術家たりうること。私たちがクリエイティビティを発揮することは社会にとって必要で、そして現代アートは私たちが社会の中で生きることを肯定してくれるものだ。」という考え方に私も刺激を受けました。なんとかあと3回の授業の中でもう少しわかりやすく伝えたいです。奈緒子さんとトーマスは、いい方法を思いつかないでしょうか?ごちゃごちゃ説明するよりも、学生と一緒にダンスを作った方がいいでしょうか?

<田中奈緒子さんより>
生の作品に触れてもらうのはもちろん理想だけど、できれば表現活動にまつわる作家の生の声を聞く(作品の説明とか整合性のあることばかりではなくて、矛盾とか分からないことにどうやって作家が向かっていたかということ)、そしてやはりなんらかの形で創作活動をしてみるというのが一番有効なのではないかなと思います。私は身体表現やコミュニケーションを制作の軸としているわけではないけど、 空間における身体感覚、このアナログな視覚と聴覚と想像力に立脚して表現活動しているから、今、パンデミックによって直接的な交流が制限され、インターネットの一人勝ちになってしまっていることのもどかしさは人一倍感じています。
日本の状況を省みて、主体性を養うということが一番の課題だと思うけれど、それが本当に難しい。自分の考えが誰かの考えではなくて、自分の考えだと言い切ることができるのか。そもそも自分は誰なのか。それを検証するためには、自分が何によってできているのかを見つめる必要がある。そこには両親がいたし、学校の教育があったし、友達の影響があった。社会のモラルがあるし、何と無く共感する思想がある。それら既存の構造から自分を切り離してみることは本当に難しい。私も外国にこなければ様々なことを相対化してみるという見方は身につきませんでした。
世界の様々な事象に対する自分の感じ方、自分の考え、自分の価値観、、そういったことをリフレクションするために文化があるし、特に同時代を生きる表現者が見る世界を作品やアクションを通して一緒に感じ考えることは、自分の立ち位置を揺らがし、確かめ直すトレーニングとしてすごく効果があると思います。が、、
日本人の傾向として、やはりどこか「正しい」アートの理解の仕方とか、そういった外的な縛りに囚われているように思う。自分の中の可能性の力として創造力を感じる、というのは、やはりあくまで内発的なものだから、どうやって全ての「外的な現象としてしか感じないもの」の中から1%でも内的現象—心が動くということーとして感じてもらえるか。それはこちらの感動を見せるしかないのかなと思う。全く具体的な対案がなくてすみません。

<Thomas Lehmenより>
I think: You are doing very well and you do a lot. What students get out of it and how many get it, you never can tell.
Their reactions are quite various, they describe a few clear and important observations. Thats not bad.
How about, they need to understand the coherences of society and art in their own culture and then they can apply the tools of analysis to other things? Not to transfer the information and the artistic content or compare aesthetics and affections they have, but the way to analyze and the scientific thinking.
I am not a specialist in this, but clearly the means and methods we use to analyze something, are predicting the results, at least for a part.
When I teach, I sometimes let them describe what they see as material (paint, canvas, human, stage, grass, all the elements which are really there as material), then describe what they see in the level of image (the brown paint shows the form of a horse... the red is forming a triangle in equal distance and angles to the edge of the canvas which is framed by a thin wooden frame ...), then how they react as a person, and then what they think about the work of art in relation to the rest of the art world and in relation to themselves. When they go through the whole process with any simple painting, any piece of music, traditional or "contemporary" art, dance, acting, no matter what, even daily things like a spoon on the table, but preferably with pieces of art work they don't know yet, they know to use the differentiation of these descriptions. Specially with a group it takes quite a while, but a time limitation of about 10m minutes, or 2 minutes for each aspect of a small work, can be healthy. In written form it might be 2 or 3 sentences for each aspect.
Other methods I don't know or "methodology of applied analysis", but isn't there a philosopher, the one with the Scandinavian sounding name specialized in that?
Dancing with them would be good ... . Doing the whole thing would be the best, they should get the same tasks as the artists of Arbeitslosen Ballett and people in Naoko's work get.
あなたはとてもよく、多くのことをやっているんじゃないでしょうか。何人くらいの学生が、講義から何を得ているか、あなたには知るよしもありません。彼らの反応は非常に多様であり、いくつかの明確で重要な観察を述べています。悪くない。
自分の文化における社会と芸術の結びつきを理解することが必要なら、分析のツールを他のものに適用してみるのはどうでしょう? 情報やアートの内容を伝えたり、そのアートが持っている美学や特徴を比較するのではなく、分析の方法や科学的思考を伝えるのです。
私はこの分野の専門家ではありませんが、私たちが何かを分析するために使う手段や方法といったものは、必ずその結果内容に反映してくるものだからです、少なくとも部分的には。
私が教えるとき(=トーマスが大学で学生にアートの講義をするとき)、時々、彼らがマテリアルとして何を見たかを説明させます (絵の具、キャンバス、人間、ステージ、草.....実際にマテリアルとしてそこにある、すべての要素)。次に、彼らがイメージのレベルで見たものを説明させます(茶色の絵の具は馬の形を示している...赤い色は、薄い木の枠で囲まれたキャンバスの縁に、同じ距離、同じ角度で三角形を形成している...)。そして彼らが人としてどのように反応したか、芸術作品について、他の芸術世界との関係で、そして彼ら自身との関係で考えたことを説明させます。シンプルな絵画、音楽の一部、伝統的あるいは「コンテンポラリーな」アート、ダンス、演技、またテーブルの上のスプーンのような日常的なもの、芸術作品でまだ知らないものさえこうして記述することができます。対象はなんでも良いのですが、これによってこれら記述の違いを学び、理解するのです。グループの場合だと特に、かなりの時間がかかりますが、10分程度、小さなワークでも、2分程度の時間制限があればうまく行くでしょう。文章で行うなら、それぞれの局面に対して2つまたは3つの文が良いかもしれません。
その他の方法はわからないのですが、でも「応用分析の方法論」でしたっけ、スカンジナビア風の名前の哲学者で、確かこの分野のスペシャリストがいたような?
学生と一緒に踊るのもいいですね。全部やってみるのが一番で、「失業者バレエ団」のダンサーたちや、奈緒子さんの作品の共同制作者たちと、同じような仕事をするべきでしょう。

<第10回課題>

1、「Erstes Oberhausener Arbeitslosen Ballett (オーバーハウゼン失業者バレエ団)」Thomas Lehmen 
(noteでは映像なし)

2、「Die Scheinwerferin(光を投げる女)」田中奈緒子
https://ja.naokotanaka.de/-die-scheinwerferin-

以上、二つの映像を見て、気づいたこと、考えたことを書いてみましょう。
またトーマスと奈緒子さんに質問があったら書いてください!授業支援システムの「レポート」欄から送ってください。匿名でいくつかピックアップして次回の授業で取り上げ、話をしていきます。


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