◇読み解く面白さに気付いたとき

8/19の日記で、読書感想文がとても苦手だった話をしました。

夏休みの読書感想文にはいい思い出がない。でも授業にまで範囲を広げると、たったひとつだけ、良かったと思えるものがある。それは高校二年生のとき。題材は、中島敦の『山月記』でした。
現在、青空文庫でも読むことができます。

授業の前にひとりで読んでみたのですが、正直に言って、理解ができませんでした。馴染みのない言葉も多かったし、内容的にもどう解釈すればいいのか悩みました。難解、という印象。これがのちのちテストに出題されることを思うと、頭が痛かったのです。
さて、いよいよ『山月記』を扱うという段になって、先生がこんなことをおっしゃいました。

「教科書には、教師用に指導書というものがあるのですが……今回、それは使いません。僕独自のやり方でみなさんに授業を行います。ですから、先輩方のノートを見せてもらっても、意味がありません」

教室内がどよめきました。いったい何が始まるんだろうという、戸惑い、不安。わたしも例外ではありません。ただでさえ難解だと感じた作品を、前例のないやり方で教えられる。恐怖すら感じたかもしれない。

ところが……これが、ものすごく面白かったのです。当時のノートは紛失してしまって手元にないのですが、たとえば文中にしばしば登場する「叢」という言葉に目をつけて、「叢に身を隠して話す言葉。みなさんなら信用できますか?」という広げ方をしていた記憶があります。
わたしは、これで「くさむら」と読むのかあ、と思っていたに過ぎません。叢から出てこない理由は李徴の答えをそのまま鵜呑みにしていた。でも、もし自分が彼の友人で、叢を隔ててその言葉を聞くのだとしたら……。隠し事や後ろめたい何かがあるように、思えるかもしれない。本心ではないのではと、疑うかもしれない。距離を感じ、寂しくなるかもしれない。
さまざまな考えが頭を巡ります。

あんなに難解でどうしようもないと思えていた小説なのに、授業が進むたび、どんどん興味が湧いてくる。見えるようになる。鬱蒼とした森の中で途方に暮れていたのが、導きに従い歩みを進めてみたら、いつの間にか視界が開けて壮大な光景が広がっていた……そんな感覚にも思えた。ものすごく、昂ぶりました。
はじめて、物語を読み解く面白さを知った気さえした。幼いころから本が好きで、それなりに読んできたつもりでした。でも、文章をなぞる以上の行為ではなかったのだと、思い知らされた。衝撃でした。

『山月記』に関するすべての授業が終わったあと。感想文を書くための時間が設けられました。それまでの授業で感想文を求められたことはありません。でも今回は先生にとっても初の試みでしょうから、生徒の反応、理解度などが気になったのかもしれない。
文字数上限は八百字と、夏休みの感想文に比べたら少ない設定です。しかし頭を悩ませる生徒が多くいました。授業内で書き上げなければならず、時間制限との戦いでもありました。
わたしも苦戦したひとり。ただし書けなかったからではありません。八百字に収めるのに必死だったのです。改行を減らし、平仮名を漢字に置き換えるなどして文字数を調整していった。詰め込んでいったのです。

出来上がった感想文は、のちに先生が紹介してくださいました。名前は伏せて、最初から最後まですべて読み上げてくれた。ものすごく照れくさかったけれど、嬉しくもあった。何より、誇らしかった。
だから今でも、保管してあります。久々にひっぱり出して読んでみたら、何だかこそばゆい気持ちになりました。こんなことを考えたんだなあ、と他人事のように思ったし、青いなあ、としみじみ感じたりもした。まだまだ理解が浅いという気もする。
でもせっかくなので、ここに残しておきます。十数年前、高校二年生のわたしが『山月記』に何を思ったのかを。……恥ずかしさは拭えないのですけど。

 読後まず衝撃を受けた。それから納得し、親近感を覚えた。李徴はまるで私の様であり、私は彼の様である。自嘲癖も、臆病な自尊心も尊大な羞恥心も私が持つものであり、卑怯な危惧と怠惰とが私の全てであるとも言えるからだ。
 しかし彼と私の明らかな違いは、心に巣喰うそれをどう称したかだ。彼が言う所の「猛獣」は、私にとっての「闇」であり、彼はそれを「各人の性情」と定義したが、私ならば「他人に明かさぬ全て」と固定する。「人間」と「虎」で表されたものは、「表面」と「内面」だ。決して「理性」と「本能」ではない。そして私の内にも猛獣は存在し、それは狂気じみて歪み、時には抑え難くなる。いっそ狂ってしまえば楽なものを、そう、李徴が言う様に、人間の心が消えてしまえば自分は幸せになれるだろうに、枷がそれを許さない。その枷は各々違う。しかし人間の持つ何かだ。法律や道徳、良心、或いは、愛する者の存在かもしれない。李徴はその枷を失ったが故に、猛虎となってしまったのだろう。そうして初めて気付いたのだ、欠けていた何か、失った何かに。けれどもう遅い、彼には何の術も残されていない。しかしそれは何も彼だけの話ではない。殺人者の飼う獣、背徳者の飼う獣、そして私の飼う獣。それらに何ら変わりはない。いつ、私が獣に喰われるとも知れぬ。人間であるうちに気付かなければ、李徴の二の舞になるだけなのだ。
 きっともう、李徴が人間に戻る事は無いだろう。真実に気付いてからでさえ、李徴は何ら変わっていなかった。己の詩業を気にかけ、妻子は二の次だという、その、姿勢は。一度虎になったら、人間に戻るのは困難だ。一度汚れてしまえば、簡単には綺麗にならない。李徴の例は正に教訓である。誰もが持ち得ながら目を背けてきたそれを、再認識するきっかけである。私はずっと人間のままであり続けたい。

お読みくださり、ありがとうございました。

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