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無知ほど怖いものはない

あの日が来るまで、わたしは「なぜ勉強しなきゃいけないんだ」と思っていた。
別に1次方程式が解けなくも生活できるだろう、
勉強する意味なんてないだろう、と思っていた。

同じころ、よく顧問の先生に言われていた。
「無知ほど怖いものはない」と。
当時のわたしは、この言葉を「知らないがゆえに恥ずかしい思いをする」という意味でとらえていた。

この認識は、捉え方は、あの日が理由で大きく変わった。


2学年上の先輩の卒業式で演奏し、送り出したあの日。
式を終えてお弁当を食べて、部活をしていた。
個人をして、パートして、課題曲の合奏をして、また個人して、パートして、自由曲の合奏をして下校する、そんなスケジュールだったと思う。
課題曲の合奏をしていて、先生からのフィードバックを受けていたら、揺れた。
「え、これ地震…?」「でかくね…?」という空気になり始めて、
部長だった先輩が「椅子の下隠れろ!」と声を上げた。

先生に頼まれたわたしの先輩がテレビをつけたら、凄まじい状況が映っていた。
楽器を床におろして避難し、当然部活どころではなく、帰宅した。


それから毎日、被災状況が報じられた。
給食だって止まったし、自粛でエアコンは使えなかった。
それまで学校で見たことがなかったストーブが教室にあった。
進級して、少年の主張に取り組んだら、同級生や先輩の主張の内容は、8~9割震災のことだった。

そんな、今まで置かれたことのない環境に置かれながら暮らしていた中で印象に残っているのは、原発事故で避難生活を送るひとに向けられた、無知に満ちた視線とそこから生まれた悪意の行動のかたまりである。
「放射能がうつる」と、嫌がらせをされていた。
そんな中で、確か原子力発電とか、そういうことにかんするパンフレットが配られて、
放射線や放射能について解説がされていた。
「放射能はうつらない」と書いてあった。

それを見たからだろうか、
「無知ほど怖いものはない」の言葉の意味をもっと深く感じられた気がした。
無知であるがゆえに自分が恥をかくだけでない、誰かを傷つけることがあるということを、14歳のわたしはまざまざと感じさせられた。
その後、少年の主張で学年代表に選ばれた同級生の主張の内容が、
「勉強の大切さ」だった。
学校代表を選ぶ選考会で、その同級生の
「パイプを積む時、裾野が狭いと積み上げられる数は少ないが、
裾野が広いと積み上げられる数は増える。
勉強とは、その裾野を広げる行為ではないか。」という主張を聞いて、
ああそうだよなあ、と気づかされた。


同じ「人間」といっても、「ホモ・サピエンス」と「社会的動物」に分けられると思っている。
生理的欲求を満たすだけの人間か、知性・感性を兼ね備えた人間か。

人間が社会的動物であるための要素として、「言語」と「文化」がある。
思考の源としても、他者と関わるツールとしても、「言語」を欠いては人間を語れないであろう。
アイデンティティとして、「芸術」や「歴史」などなどの「文化」がなければ、それは色も潤いもなにもない世界である。

感情だけでなく、論理でも判断できなければ、誤った選択をとるし、
ひとを殺すこともある。

知性がなくても、論理的思考の回路がなくても、ひとは社会的動物にはなれず、
ただのホモ・サピエンスでしかいられない。

高校までで触れる「教科」って、「ホモ・サピエンスを社会的動物たらしめるもの」と「社会的動物として生きるためのもの」と「そもそもホモ・サピエンスとして生きるためのもの」の3つがあると思う。
古典や芸術、歴史はホモ・サピエンスを社会的動物たらしめる文化。
公民や数学は社会的動物として生きるための道具。
化学や生物、家庭科はそもそもホモ・サピエンスとして安全に暮らすための知恵。
もちろん、1つの側面だけでなくて、全ての側面にまたがってもいる。

勉強って、ある程度までは「できなきゃ生きていけない」という、ある意味実利として取り組むものだけど、
その実利を通り越したら、知性や感性を磨いて、
色々なことを感じられるために取り組むものになる。

勉強がなければ、ヒトはただのヒトでありホモ・サピエンスなのだ。


今のわたしの芯の1つになっている考えは、
「無知ほど怖いものはない」である。
それも、新たに加わった捉え方の要素強めで。
今まで置かれたことのない環境で暮らしていたことと、
同級生の主張を聞いたことがきっかけで、
わたしは勉強というものを、知性を大切にするようになった。
そして、その知性や感性を、品性を磨けるのは自分自身でしかない、と。
磨ける環境は醸成してもらえても、磨くかどうかは自分次第であって、
それは責務でもあると。


生きるということは、責任を果たすこと。
その責任を果たすためには、しなきゃいけないことも、自分のやりたいと思うことも、
真摯に誠実に貪欲に取り組んで、経験を得ることが必要である。
その学びが積み重なって、広く深くものをみれるようになって、
構造がみれるようになって、
自分の言葉を、発した意見をそのままにせずにいられるようになって、
責任が果たせるようになっていく。

勉強とは、その学びを得るための1つの手段である。
学校の勉強だけしてればいいわけでもないし、
学校の勉強を疎かにしていいわけでもない。
真摯に誠実に貪欲に取り組むことは、自分自身を、誰かを守ることになる。


あの日が来るまでのわたしは、このことに気づいていない、
無知で愚かなホモ・サピエンスであった。

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