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「盛る」への依存は、人間の「モテたい」という生殖本能からくる自然なものかもしれない

2年ほど前から、長年使用していたカラコンをやめた。
ばさばさにつけていた、まつエクもやめた。
メイクも最低限、アイラインはひかず、アイシャドウもシンプルなカラーをひと塗りするくらい。
私は「盛る」を卒業した。

そんな現在27歳である私も、少し前まで「盛る」ことの虜であった。
女子高生の頃は「盛れる」アプリなどは存在せず、ことあるごとにプリクラを撮りまくる。プリクラで更に盛れるよう、ドラッグストアのサンプル品を使っては眉をかき、アイラインをひき、とにかく盛ることに必死だった。

「盛る」は大変依存性があるように感じる。かくいう私も、やめるまでに時間を要した。いつもつけていたカラコンを外すと瞳がひとまわり小さくなり、顔がものすごく薄くなったように感じる。まつエクをやめると、メイクをしてもすっぴんで出かけているような気持ちになる。その感情は「違和感」ではなく、「恥」だった。

やめて暫く経過し、すこし薄くなった自分の顔に慣れてくると、なぜあそこまで「盛る」ことに固執していたのだろう、と不思議に思うようになった。

モテたいから「盛る」

当たり前の考察として、自らを良く見せたいからと考えられる。
プリクラや「SNOW」にうつる自分は、実際よりも髪がつややかに見え、目は大きく、肌もなめらかだ。その容姿はもはや別人。

自論であるが、ひとの動機の根底には「モテたい」が隠れていることが多いと思っている。厳密にいうと、生殖本能が裏付けされる
たとえば、「キレイになりたい」のは
相対的にキレイに見られたい

モテたい

モテて優秀な遺伝子をもつ人と子孫を残したい

という生殖本能に基づいた自然な感情だ。
いい仕事につきたい、バンドをはじめたい、髪型を変えたい。(一概にいうことはできないが)モテるため、相対的にみて魅力的に感じてもらうための努力だ。

「盛る」ことによって、写真やプリクラ内での容姿は良く見せることができる。しかし、実際に会ってみると全く別人だったとなってしまうと、生殖本能の目的を果たすことは難しくなるのではないか

「モテたい」という概念の変化

プリクラの「盛る」機能が発達しはじめたのは、インターネットが普及しはじめた頃だ。当時、簡易ホームページ設立サービスを用いて、友人らと共同でホームページをもつということが流行り出していた。
そこへは「日記」「アルバム」などのページを通して、日常をアップロードしていく。現在のSNSとは違い「フォロー」という概念はなかったものの、「リンク」を通して友人やお気に入りの人の日記を読みに行ったり、アルバムを見たりなんかしていた。会ったことはないが、ホームページを通してできた友人や、憧れる存在もいたりした。

インターネットを通しての人間関係の構築が当たり前になりはじめ、画面上で自らを良く見せる知恵がはたらきはじめたように思う。プリクラで「盛る」ことはもちろん、スタンプで鼻を隠したり、口元を隠したり、コンプレックスも容易にかくすことができた。

その後ホームページ文化は廃れ、「デコログ」が流行し、「mixi」が流行り始めたころから、近年のSNS文化が色濃くでてくるようになった。
いまや「いいね」がステータスであり、「フォロワー」が多いことは自慢になる
動機となる「モテたい」という感情は、一概に「異性から相対的によく評価されること」だけではなく、「同性も含めた多数の人から評価を受けること」へと変化してきた。

これまでモテたい⇒モテて優秀な遺伝子をもつ人と子孫を残したいと生殖本能へ直結していたが、このように目的が多様化しつつあることが、晩婚化や少子化へも影響しているのでは、なんて考えたりもする。

私は容姿に自信がもてない勢なので、SNSで自分の姿をアップしてフォロワーを得られるとは思っておらず、「盛る」必要がない、ということと重ねて、結婚してモテる必要がなくなったことが「盛る」ことをやめるキッカケとなったのかなと思う。

あくまでも自論

ここまでお読みいただき、ありがとうございました!
あくまでもこれらは私の自論であり、紐づける実証などはありません。「なんとなく、そうだったりしないかなー」なんてレベルの考察です。
お茶を飲みながら午後の喫茶店で交わされる、雑談に交えた自論展開のような目で見てもらえると幸いです。



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