食いしん坊バンザイ

 食べることが大好きだ。幼稚園児の時分から、ファミリーレストランでの食事の際にミニサイズではない通常サイズのパフェを食後のデザートとして完食し、隣の席のお姉さま方から「あの子すごいね」と(驚きが先立つのか呆れが先立つのかはわからないが)囁かれていた健啖家だ。

 長じてから精神に不調を抱え、ストレスの類を食べることで一時的に解消するようになってしまったが、それでも私が憎むのは『食べること』ではない。惰弱な自分自身だ。食事という行動に罪はない。

 食べることが大好きなのは、母が高校の家政科出身で料理が上手いというのも大きいが、親戚が営んでいた食堂、その厨房に自由に出入りすることが許されていたというのも大きいのでは、と思う。


 大叔父夫妻が営んでいた食堂。親戚という伝手もありそこでパート勤めをしていた母を迎えついでに、土曜日はよく父に連れられ妹と共に昼食を食べに行っていた。

 バターで炒められた、ガチ中華とはほど遠いが優しくもしっかりとした味のチャーハン。

 ケチャップが赤く照る大きなオムライスは薄焼き卵に包まれたもので、私は未だに『オムライス』と言うと、チキンライスの上に半熟のオムレツを乗せぱかっと割り開いて包み込むものよりも、薄焼き卵に包まれたものの方を思い出してしまう。

 古びた製麺機から生まれた中細の縮れ麺が醤油味のスープに浸るラーメン。恰幅の良い大叔父が「栄養はスープに全部入ってるんだかんな」と私がレンゲでちびちびと掬い飲んでいると嬉しそうにしていたスープの味は今でもなんとなく覚えていて、それに近い味のラーメン屋を見つけるとついつい通ってしまう。


 ラーメンのスープの味を今でもなんとなく覚えているのは、厨房の真ん中に鎮座していた寸胴で皮のまま丸ごと煮込まれていた玉葱や人参・長葱の姿を、湯でこぼしたものの洗いを手伝った大ざるいっぱいの鶏のもみじの感触を、今でも覚えているからだと思う。

 何が材料に使われていて、どんなふうに作られているのか。

 ありきたりな話ではあるが、見て、触れることで、より鮮明に記憶に刻み付けられる。

 大きな調理器具や調味料を眺めたり触ったり、家庭の料理とはまた違うやり方のお手伝いが楽しくて好きだったことが、私が『食べること』が大好きなのに繋がっているのではないかと、何とはなしに思うのだ。


 単純に、『おいしいものが好き』ということもあるけれど。

 大叔父が亡くなってしばらくは件の食堂は大叔母が切り盛りしていたが、従叔父がすぐに焼肉店へと生まれ変わらせた。

 町なかから駅前へと拠点を移した焼肉店は、繁盛を続けて数年前に自社ビルを建設するまでになっている。従叔父が独自の仕入れルートを開拓した新鮮な牛肉は、月並みだがとろけるように旨い。なんならもう焼かずに生で食べたい。喰らいたい。


 ふと思い立ち、すっかり高級店となったその焼肉店の口コミをインターネットで覗いてみた。

 インターネットの口コミ特有の玉石混交のレビューの中、ひとつ目に留まる表現があった。

 『(件の食堂の店名)のせがれがやってる店』。

 このレビューを書いた人の中には、あの食堂が今でもあるのだろう。

 この人が好きだったメニューは何だろうか。大きめに切った玉葱が甘いカツ丼?お昼休みの勤め人の皆さんに人気だった天そば?肉厚の豚の甘みをよく効いた生姜が引き締める生姜焼き定食?

 顔も名前も、年齢も性別さえも知らない人。そんな相手と、思い出の味を共有できるかもしれないというのは、どうにも不思議で面白いことだ。

 私は、食べることが大好きだ。どこかの誰かも、食べることが好きでありますように。

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