妻に髪を切ってもらう。

「前髪、切ってあげようか?」

美容院へ行けないまま伸び放題のわたしの頭に妻が両手をチョキチョキさせながら不敵な笑みを浮かべると、数年前のあの事件がフラッシュバックする。

あれは息子が生まれるまえの夏。極度の人見知りなわたしは美容師さんに話しかけられるのが苦手なあまり、妻に髪を切ってもらうことにした。それから数時間後、風呂場の鏡のまえに丸坊主姿で座ることになるとも知らず。

妻は「いまなら失敗しないから大丈夫」と胸をはる。たしかに妻にはあれから自分の前髪だけではなく、生まれた息子の髪もずっと切ってきた実績がある。あのときのように途中で収拾がつかなくなり、バリカンですべてをなかったことにせざるをえないだなんて悲劇はもう起きないかもしれない。

いまでこそ、客にまったく話しかけてこない美容師さんをようやく見つけだしたものの、この状態だと美容院にはしばらく行けそうにないだろう。ここでまた妻にお願いしてみるのも悪くないのではないか。

そんな前向きな雰囲気をすこし醸しだすと、妻は「ほら、はやく。その前髪、取っちゃおう♩」とノリノリでヘアカット用のハサミを持ちだし、わたしを椅子に座らせ、穴をあけたゴミ袋を頭からかぶせる。「いや、取らないで。切ってください」というわたしの陳情はもう届かない。

妻は独特な中腰でおしりをふりふりさせながらリズムよく切っていく。いつのまにか前髪だけではなくサイドやバックにも鼻息荒くハサミを入れはじめ、そのままものすごい集中力で全体を整えていくと、「できた、いい感じ!」と不意に声をあげ、鏡を見せてくれる。

おお、すごい。たしかにサイドやバックはものすごくきれいだ。ただ、問題は前髪である。これはもはや「パッツン」ではないか。よく考えたら、妻があの事件からどんなに腕を磨いてきたといえど、肝心の妻も息子もパッツンなのである。その事実にはやく気づくべきだった。

鏡を見つめるわたしのとなりで、パッツンの妻が「すごくかわいくなったね」と自画自賛している。そこへパッツンの息子が昼寝から起きてきて、パッツンのわたしを嬉しそうに見上げる。すると、なんだかこの髪型がとても愛おしく見えてくる。そして「これからもずっと妻に切ってもらえたらいいな」と思う。パッツンでもいいから。

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