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一緒が嬉しい。

2歳児の女の子が登園してくると、私が『おはよう』と挨拶するなり、自分が着ているTシャツを指差して、『ミッキーミッキー』と言う。
ミッキーマウスがプリントされている服を着て来た事が嬉しかったようだ。
私が、『ミッキーだねー良いねー』と声をかけると、にっこり笑う。
しばらくすると、その女の子が、今度は男の子の友達の服にもミッキーマウスを見付けて、すぐに駆け寄り、男の子のTシャツを指差し『ミッキー!』と言う。
自分のTシャツと男の子のTシャツを交互に指差し、何度も何度も『ミッキー!ミッキー!』
相手の男の子は、急に声をかけられて驚いた顔をしていたが、すぐに笑顔になった。
2人で、こっちと、あっちを指差して『ミッキーミッキー』と言うたびに、どんどん笑顔が大きくなる。
私はそんな2人に『一緒だねー良いねー』と声をかけた。2人の喜びが伝わってきて、私も嬉しい気持ちになる。心がほっこりした、幸せな時間だった。
〝友達と同じ〟というだけで、女の子の喜びは倍に、男の子の何気なく着ていたTシャツは特別なものになった。
1.2歳児のこの時期、友達に興味関心が出てきた初めの頃、〝友達と一緒(同じ)〟という事に喜びを感じ始める。人との繋がりに心が動く、初めての経験だろうか。
〝一緒が嬉しい〟つまりは共通点や共感を嬉しく思う気持ちというのは、子どもだけに限らない。
人間と言うものは、共感に喜びを感じたり、癒されたりする生き物である。
思えば私たちは、〝一緒〟を探している。価値観が同じ人、共通の趣味がある人、味覚が合う人、笑いのツボが同じ人。
好きだな、とか、嫌だなと思う気持ちを誰かと語り合ったり、分かち合いたいのだ。
誕生日や出身地が同じと分かっただけで、運命の人かもしれないと思ったりするのだから不思議だ。

私が高校生だった頃、個性的なクラスメートがいた。彼女は、当時ではまだ珍しかった、アシンメトリーな髪型にしていて、奇抜なデザインのリュックを背負っていた。当時、インディーズバンドが流行っていたが、彼女が好きなバンドは、誰も知らないコアなバンドだった。
彼女はお洒落で、どこか謎めいている雰囲気が魅力的で、周りからも一目置かれる存在であった。女子のどこのグループにも属さない、言わば一匹狼タイプだった。
グループに居場所を見つけられるかどうかが、死ぬか生きるかくらいに感じる学生時代、一人でいても凛としている姿がとてもカッコよく思えた。
私なんかより、とても魅力的な彼女だったが、勝手にどこか自分と似ている感じがしていて、彼女は私にとって、気になる存在であった。チャンスがあれば、あれやこれやと質問していた。
聞けば彼女は〝誰かと一緒〟が嫌いだと言う。誰かがすでに持っているものは彼女にとって、価値を感じないんだそうだ。自分が見付けた、自分だけのものに価値があるのだと言う。
話していると、〝これ以上聞いてこないで〟と言うオーラを感じる事もあったので、彼女にとって私は自分が触れられて欲しくないところに入ってくる、嫌な存在だったかもしれない。
そんな彼女とたまたま帰りの電車で隣の席に座った。彼女が読んでいた本には、ブックカバーがされてあったが、チラッと見えたその内容に見覚えがあった。私は思わず『あ!その本!』と、自分の鞄の中に入っていた同じ本を見せると『あ!同じだ!』と彼女が笑った。
私が『これ、良いよね』と言うと『良いよね』と答えた。
その本は、家族の物語で、複雑な家庭環境で育った主人公が、悲しみや葛藤を周りの人の温かさに触れながら乗り越えて行くといった内容だった。
あまり自分の事を多くは語らない彼女だが、彼女もまた複雑な家庭環境の中にいると聞いた事があった。本の感想などは、それ以上何も話さなかったが、父子家庭で育った私と、彼女と、その物語の主人公を重ねて、彼女もまた、言葉に出来ない思いを、この本の中に見付けて癒されているのではないのだろうかと想像する。
その日以来、何となくではあるが、彼女と話している時の壁のようなものが薄くなったような気がした。
〝誰かと同じ〟が嫌いと言っていた彼女であったが、私が同じ本を読んでいた事実を少しは嬉しく感じてくれていたのではないかと勝手に思っている。

全てが同じ人はいないと分かっているからこそ、〝人と同じ〟を見付けると、まるで奇跡のように感じる。誰にも分かってもらえないと思っていた気持ちを誰かが言葉にしてくれたり、『分かるよ』と心から言ってくれた時、一人じゃないんだと胸が熱くなるほど嬉しい。

友達と同じミッキーの服を着て喜ぶクラスの子どもと、友達と同じ本を読んでいたことが嬉しかった私。
明日からも私たちは、誰かと一緒を見付けては、心を踊らせるのだろう。

#日記 #エッセイ #子ども #保育 #保育士 #共感 #一緒が嬉しい

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