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私たちのおばあちゃんの話

8月15日、ということで、
書き残しておきたいと思う「おばあちゃんの話」。

福島に帰郷してからしばらくの間、
ご縁があって私は伊達市の小さな短歌会に参加していた。
これは、その短歌会に来ていたおばあちゃんから聞いた話だ。
ここではHさん、と呼ぶ。
歌の縁というのは本当にふしぎなもので、
Hさんは私が高校時代に仲がよかった友人のおばあちゃんのお姉さん、だった。
(ちなみにその友人は中学時代、私の母が英語を教えていたという縁もある。)
以下、詳しい場所や人名は残念ながらしっかりメモをとっておらず、なおかつこの話を聞いたのは5年ほど前の話なので、やや正確さには書けるのだが、これ以上記憶があやふやにならないうちに書いておきたいと思ったのが今回の記事の目的だ。

おばあちゃんたちの青春

その短歌会に集まっていたのは、80~90代の女性たち。
ほとんどが、福島高等女学校(当時)の卒業生。
だから歌会の時は、よく女学校時代の思い出話で盛り上がっていた。
怖かった先生の話とか、
あんたは足が速かった、とか、
午後の数学の授業をサボって映画を観に行ったことあったよねえ、とか。
そういう話をして笑い合っている時のおばあちゃんたちは、
明らかに表情も口調も笑い声も十代の女の子に戻っていて、
とても幸せそうだ。
私もいつも楽しく聞いていたのだけれど、
彼女たちのそんな幸せな日々を大きく狂わせたのが、あの戦争だ。
彼女たちの歌には、当然戦中、戦後の思い出も多く登場する。
その時もやはり誰かが終戦時の思い出を詠った歌を一首出していて、
評が終わってから、とつとつとHさんが話し出したのだった。

Hさんの話

Hさんは終戦時、女子挺身隊の一員として長野県の松本にいたのだという。
あの玉音放送があった日は、
様々な体験談でもよくあるように何もわからないまま集められ、
みんなで頭を垂れて放送を聴いた。
その後、近くの大学の講堂で、
恩賜の銀時計も受けたという一人の優秀な青年将校がピストルで自らの命を絶った。
Hさんは、他数名の女学生と共に、
その遺体が運び出された後の血だまりを掃除するようにと命じられ、
命じられるままに大量の血液を拭いた。
大量の血液もショックだったが、
何よりも若くして死んでしまった将校が可哀想でならなかった。
でも、涙は出なかった。

挺身隊は解散。
福島に帰るように伝えられ、その際にHさんたちは一人ひとり、
小さなガラス瓶を受け取った。
「青酸カリが入っている。道中<何かあったら>、これを飲みなさい。」
そう言われた。
戦争に負けて、これから米軍がやってきたらどうなるのか。
はたまた、これまでの不満や悲しみを爆発させた日本国民がどうなるのか。
既に、それまでの上官が部下たちに文字通り袋だたきにあう、という事態があちこちで起きている。
無事に帰れるのかどうか、誰にもわからなかった。
Hさんはガラス瓶を懐にしまい、
すし詰めの汽車の中でそれを抱きしめるようにして福島まで帰った。

長い旅の果てにようやく故郷に汽車が着くと、
駅に姉が迎えに来てくれていた。
Hさんはその姉の顔を見て、初めてぼろぼろと泣いた。
青酸カリの瓶はなぜか捨てられず、
結婚して子どもが生まれてからもずっと持っていたのだという。
台所の戸棚の奥にしまっておいたのだが、
自宅が不運にも火災に遭った時に、焼失してしまったーー。

わたしたちのおばあちゃんの物語

以上が、私がHさんから聞いた話だ。
Hさんは高齢のため現在は短歌会を離れていて、
(そして私も仕事が忙しくなって短歌会に顔を出すことができず)
残念ながら改めてお話をうかがうことは難しい。
その後少し調べてみたのだけれど、
福島の女子挺身隊が長野に派遣されていたという記録はみつからなかった。
でも、嘘や作り話ではもちろんない。
ネットで検索してみただけだから、
近々にもっと詳しく調べてみたいと思う。

毎年この季節になると、
日本中、そして世界中にいたであろう、
たくさんのHさんとーーいや、わたしたちのおばあちゃんと、
彼女たちが語ることのなかったたくさんの物語を思う。
彼女たち一人ひとりの人生という物語を、
できるだけ残しておきたい。
そう思うのは、戦争だから、とか、貴重な証言だから、ではない。
ましてや彼女たちが可哀想だから、ではない。
私の人生は、私という人間の存在は、
そうして彼女たちが生きてきた結果のひとつ、だからだ。

おばあちゃんたちの物語を、ずっと記憶にとどめておきたい。
彼女たちからたくさんの愛情をもらって大人になった、
孫娘の一人として。
彼女たちが切り開いてくれた道を歩いている、
女性の一人として。

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