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小さかった頃のこと


(約1,600字)

最後にスタエフでの音声配信を貼り付けてあります。文章と同じ内容です。

寝る前の習慣ですが、記事を確認する元気が残っていなかったため、お昼までの宿題にすることをお約束して、休みます。

子どもの頃から、いつも自分のことが嫌いでした。3人きょうだいで育った私の遊び相手は、家族だけでした。
過疎化の進んだ田舎の村には、そもそも子どもがいませんでした。

家の周りには野菜を作っている畑と、初夏に収穫する茶畑が山の裾まで広がっている緑色の世界‥‥要は、目が届くところには山々と畑しかありませんでした。

夜は漆黒の暗闇があり、真夜中にはキジの鳴き声や、イノシシが畑から竹林への獣道に食べ物を探して寝ぐらへ帰る物騒な物音が響き、
恐怖でしかありませんでした。

村中に民家はあっても、隣の家までが離れており、大声を出して歌を歌おうが迷惑にはなりません。夜に子どもが一人で外を歩くことが考えられませんでした。

小学校にあがる前は、裏庭に大きなカマドがありました。大きな釜で赤飯を炊いたり、もち米を炊いて、お正月にはその餅米で炊いたものを臼へ移して、家族で餅つきをしました。

また、トイレが家の外にもありました。
外にあるトイレは昔からの木の造りで、野良仕事や山仕事をする人が、用を足すためのものでした。
いわゆる肥溜めと言われ、汲み取り式便所というもの。「ボットン便所」と呼ばれていました。
落ちたら臭いだけでなく、子どもが落ちたら命にかかわる危険をはらんでおり、近くに行くのを禁じられました。

保育園にも、私が小さい頃は「ボットン便所」がありました。
あるイジメっこの男のコが、ふざけて保育園のそのトイレにカエルを投げ入れました。
私たち園児は、しばらく用をたす度に「カエルさん、ごめんなさい」と謝ってからトイレを使いました。

私は保育園にも馴染めませんでした。
人が怖くて、というより、ありとあらゆるモノが怖くて、登園日の半分も通っていませんでした。
保育園で、外で他の友達と遊ばないといけないときは、砂場で砂の山をつくって隅の方で動きませんでした。

お昼寝の時間も、長い長い時間でした。
みんながスウスウ眠っていたが、怖がりの私が
他人がゴロゴロざこ寝しているところで眠れるはずがなかったのです。
いつも寝たふりをして、退屈なタヌキ寝入りの薄目でいた私は先生にマークされていました。

先生に見つかっては「おやつが出ませんよ」となんのペナルティにもならない脅しの文句に
苦笑いをするのでした。
というのも、おやつの前に「肝油」という名前のグミのような甘い食べ物を配られました。いま、大人になった私には躊躇なく食べられますが、当時は、まぁ口に合わなかったのです。

屋外活動の散歩やかけっこでは、必ず転び、
毎回、膝小僧を擦りむいて、泣いて帰りました。

6才より前の記憶で平穏だったのは、家の敷地内の出来事だけでした。

池の前の飛び石で体勢を低くしては人差し指を
立てていると、トンボやチョウチョが羽を休めました。
カナブン、バッタ、カブトムシ、クワガタ、
てんとう虫を捕まえては、ブローチみたいに
胸につけて歩いたのです。

一度、妹だか弟だかが、トンボの胴体に糸をつけて飛ばしていたときに、祖母から雷を落とされて縮こまっていました。
それを見て、虫で遊んではいけないと教わりました。

それでもやめられなかったのは、蔵の縁の下に見つけた袋状の巣を破いてクモ(蜘蛛)を
取り出して手のひらに乗せていたこと。

その小さいクモは
「ウスバカゲロウになるんだよ」

と弟から教わりました。

私が生まれたときに家にいた動物は、
牧羊犬とインコ。

そんなわけで田舎では、ひとと接するより
圧倒的に人間ではない生き物と遊んでいたのでした。
人間に慣れるのは、ずっとずっと後の話し。

でも、実際には蟻地獄の中にいる幼虫が
ウスバカゲロウになることは後から知ることになる。

生き物図鑑が愛読書の弟が間違えるわけがない。

おそらく、私の袋の巣を破ってクモを取り出すのを、弟は阻止したかったのだろう。

そんな風に怒らないでやめさせようと導く弟のやり方を、少し真似できたらいいな、と
本のウスバカゲロウを見ると思い出していた。




夕暮れに半分の白い月

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