第26話「貴族の事情」
リンが自習室で勉強しているといつもの如くユヴェンが絡んできた。
今日もユヴェンが遠回しに身分格差を煽り、リンが受け流すという構図が続いた。
「人生を楽しむために何が大切なのか、あなたには分かるかしら?」
「いや、分かんないね」
「大切なのは身分よ」
「ああ、そう」
「私はテスエラさんの主催するお茶会にも呼ばれているのよ。あなたが工場であくせく働いている間にも優雅なひと時を過ごしているというわけ。まあそれもこれも私がきちんとした身分の出だからよ。あなたと違ってね」
「それは羨ましいね」
「あなたには誰か将来を期待してくれる人はいるの?」
「いや、そんな人はいないね」
「でしょうね。私はあなたと違って色々な人に期待の言葉をかけられているの。ケイリア教授は見込みがあると言ってくれたし、ジャヌルさんは私は他の子よりも覚えが早くて期待できるって言ってくれたわ」
「はいはい。君はみんなに愛されて本当に人気者だね」
そう言うとユヴェンの顔がサッと曇って俯いた。
(あ、あれ?)
リンは少し意表をつかれた。ユヴェンのこの反応は思いも寄らないものだったからだ。一応お世辞半分、嫌味半分で言ったつもりなのだけれど、何か地雷を踏んでしまったのかもしれない。リンは彼女の表情をうかがうように見てみた。よく見ると唇の端を噛んでいる。
「認められなければ意味がないのよ」
彼女は呪詛のようにそう呟いて、それきり黙ったままになった。リンも何と声をかけていいかわからなくて押し黙った。
二人はしばしの間、気まずい時間を過ごした。
リンはすっかり消耗してドブネズミの巣へと向かうエレベーターに乗り込んだ。彼は今日もたくさんユヴェンに付きまとわれた。最近、彼女はクラスや図書館で彼を見張るだけでは飽き足らず、リンの学院外のことも管理しようとしていた。自室でどれくらい予習したか聞き出す。さらにその内容に嘘偽りがないか、細かく質問し、尋問した。リンは彼女に会っている間、裁判所に出廷させられた容疑者のような気分になった。リンは彼女をごまかすために言い訳を考えなければならなかった。
少しでも矛盾したところがあると厳しく詰問して責められた。
「ユヴェン、僕がズルしていないのはもう分かっただろ? どうしてそんなに僕のこと監視するんだよ」
「平等のためよ。学院は平等をモットーにしているのよ。あなただけ抜け駆けするなんて許さないわ」
「平等のためって……君は抜け駆けと不平等の権化みたいな存在じゃん」
「ああん? だったら何よ。立ち位置によって主張を変えるのは自然なことだわ。若い頃、老人を馬鹿にしてた奴だってジジイになったら若者叩きを始めるわ。賄賂を受け取った政治家だって失脚したら汚職してる奴らを批判するでしょ。そういうことに対して『お前が言うなって』言う輩もいるけれどね。私にそんな屁理屈通用しないから。抜け駆けしてるやつを見かけたら非難するし、不平等な扱いを受けたら抗議します。これは自然法の要請に従った正当な権利の行使よ。反論は許さないわ」
リンは言葉を失った。
彼はちょっとしたノイローゼになりつつあった。
自室ですら本を開くたびにユヴェンがあの甲高い声で注意してくるんじゃないかとキョロキョロ見回したりしたし、少しページを進めるとまたユヴェンが周りにいないかと周囲を見た。声が聞こえてこなければそれはそれで不安になった。
リンが『ドブネズミの巣』に帰るとテオはすでに帰っていた。ろうそくの灯りをつけて本を読んでいる。
「おう、おかえり」テオが声をかけてくる。
リンはテオを裏切り者を見るようにジトッとした目で見る。
「何だよ?」
「君はいいね〜。自由に本が読めて」
「君と違って厄病神が付いていないからね」テオはニヤリと笑いながら言った。
「そうだね」
リンは溜息をつきながらベッドに腰掛けた。
「ねぇ、テオ。ユヴェンってさ……」
「なんだい?」
「ちょっと頭おかしいんじゃないかな」
テオは吹き出した。
「遅いよ。ようやく気づいたのかい? 僕はずっと前からそう言ってたじゃないか」
「そうだね。君の言うことが正しかったようだ。彼女はとんでもない厄病神だよ。 僕は彼女の可愛らしさに目が眩んで彼女のストーカー気質を見抜けなかった」
「君も女に弱いねぇ」
「ねぇ、テオ。ユヴェンってさ、本当に貴族なの?」
「……どういう意味だい?」
「僕の故郷は僻地だったけれどさ。それでも領主様はれっきとした貴族階級だったし、その子供達も品があった。ユヴェンよりももっと行儀良かったような気がする」
「別に貴族でも素行の悪いのはいくらでもいると思うけど」
「んー。でも、それ以前にユヴェンの場合は何ていうか ……余裕がないっていうかさ。身分のことでガツガツしすぎじゃない?」
「そうだね」
テオは腕を組んで少し考えるそぶりをした。言うべきかかどうか悩んでいるようだった。
「あんまり人の身の上について話すのは好きじゃないけれど、君になら話してもいいかな。他言しちゃダメだよ」
「うん」
「ユヴェンは貴族であって貴族ではない」
「? ……どういうこと?」
「彼女の父親は平民階級なんだ」
「えっ!? じゃあ……」
「彼女は平民階級の父親と下級貴族の母親の間に生まれた中途半端な貴族だ」
(そうか。それで)
リンは初めて彼女と会った時、テオと彼女の間で交わされた言葉を思い出した。
「彼女の本名、ユヴェンティナっていうのは僕の国の言葉では貴婦人っていう意味で、彼女の父親、スノルヴァが『本当の貴婦人になれますように』っていう願いを込めてつけたんだ。
スノルヴァは鉱山の経営で一山当てた成金でさ、さらにガレット家の娘と恋仲になった。初め彼らの結婚はガレット家の方で認められなかったんだけれど、後継ぎになる予定だった男の子が早死にしちゃってさ。ユヴェンの他にガレット家の血筋を引くものがいなくなった。おまけに不況のあおりを受けてガレット家の財政が傾いちゃってさ。ガレット家はスノルヴァの経済力とユヴェンの血統を頼りにせざるをえなくなったというわけ。
今のところ、一応ユヴェンはガレット家の正式な後継ということになっている。でもまだその立場は不安定だ。スノルヴァが平民階級であることを根拠にユヴェンをガレット家の正統な後継と認めない奴らがいる。そいつらが国内の上級貴族とユヴェンが結婚できないように画策したんだ。しかも当のスノルヴァがガレット家より身分の低い家、つまり下級貴族以下から来た縁談をことごとく断る始末。
そのためユヴェンにはあの歳になって許嫁もいない。普通ユヴェンくらいの歳になれば大抵の貴族の子弟には許婚がいるんだけれどね。
スノルヴァは上級貴族になりたがっているんだ。そのためには外国の上級貴族と結びつくしかない。ユヴェンに魔導師の才能があったのはスノルヴァにとって僥倖だったと思うよ。この塔でユヴェンが外国の貴族と結ばれれば上級貴族への道が開かれるからね」
「そうだったのか」
「昔、僕とユヴェンはよく一緒に遊ぶ仲だったんだ。スノルヴァと僕の父は商売仲間でよく一緒に仕事していたからね。なのに貴族階級になった途端急によそよそしくなっちゃってさ。まあそれはいいんだけれど、ユヴェンはもっと変わってしまった。彼女は小さい頃からお転婆な感じはあったけれど決して相手の身分を見て態度を変えるような子じゃなかった。でもいつからか身分を鼻にかけるようになって目に見えて高慢になっていった。あの父親いったいどんな教育したんだか」
(そんな事情が……)
その日の夜、リンはベッドに寝転がりながらユヴェンの言っていたことを思い出していた。
——認められなければ意味がないのよ——
あれは一体どういう意味なのだろう。彼女は誰に何を認めて欲しいんだろうか。
(変だな。ここにきてから僕は考え事ばかりしている)
ケアレにいた頃はこんな風に夜中、寝床で考え事をして眠れぬ夜を過ごすことなんてなかった。ここよりもずっと寝心地の悪い馬小屋のような場所で寝ていたが、それでも夜はぐっすり眠ることができていた。
(やめよう。貴族の事情なんて僕が考えたってわかりやしないんだ)
リンは寝返りを打って頭の中から考え事を追い払おうとした。しかしその夜、彼の頭の中ではテオとユヴェンの言っていたことがいつまでもぐるぐると回って彼の安らかな眠りを妨げ続けた。
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