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第70話「逃走劇」

前回、第69話「リン、ヒゲを外す」

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 リンはロレアの事務所を退室するや否や顔を真っ青にして駆け出した。

(ヤバイ。どうしよう)

 彼は紳士らしからぬ余裕のない足取りで、服装が乱れるのも構わずにバタバタと廊下を走り抜ける。

(エライ事やってしまった)

 まさかこんなことになるとは思っていなかった。リンとしては決して悪意はなかった。

 しかし事ここに及んではそんな言い訳通用しない。

(とにかくテオに会わないと。この事態を打開するのと、どういうつもりでこんな事したのか説明をしてもらわないと)

 リンが建物の出口にたどり着いた頃、地獄の底から響いてくるかのような獣の咆哮が鳴り響いてきた。

 以前ロレアに見せてもらったケルベロスの鳴き声に違いなかった。

 リンは急いで扉を開け街中に飛び出した。

 行き交う人々にぶつかるのも構わずに大慌てで駆けて行く。



「テオ! おいテオっ!」

 リンは馬車に乗っているテオを見かけて走りながら声をかけた。

 馬車は大商会が軒を連ねる商店街に向かって街道を悠々と進んでいた。

 これから何か商談に行くようだった。

「ん? リンか。御者さーん。ちょっとスピード緩めてー。おーい、リン。どうしたんだーい。そんな血相変えて」

 テオは御者に指示を出して、リンの走る速さに合わせて並走させる。

「酷いよテオ。これまでも君は冷たかったりドライだったりしたけれど今度ばかり、今度ばかりは君のことを心底見損なった。最低だよ。この人で無し!」

「どうしたんだい。そんな急に怒り出して」

「どうしたもこうしたもないよ。君は、君は僕が知らず知らずのうちスパイになるよう仕向けただろ」

「あれ? 知っててやってたんじゃないのかい?」

「なんだって!?」

「君も言ってたじゃないか。和解を進めてるって。それを聞いて僕はすぐに君の真意を理解したよ。和解すると見せかけて偽装工作し、時間を稼ぐつもりなんだなって。僕は君の機知と犠牲の精神に感心したよ。状況を打開するために、自分からスパイ役を申し出るなんて、流石気が利くなぁと……」

(なぜそんな解釈にっ)

「って嘘つけー。そんな突飛な解釈ユヴェンでもしねーよ。お前絶対全部分かってて確信犯的にやっただろー」

「ハハハ。ゴメンゴメン。でもさーよく言うじゃん。敵を騙すにはまず味方からってさー」

 テオは悪びれることもなく、むしろ得意げな笑みすら浮かべている。

(ぐっ、こいつ鬼かっ)

「それよりもそろそろロレアからの襲撃に備えよう。彼女は派手な暮らしぶりに反して家計は火の車だ。来週になれば大手商会にも取引停止されて首が回らなくってにっちもさっちもいかなくなるはず。あのババアが激昂して僕たちに襲いかかる前に一旦アルフルドから逃げるんだ。もう潜伏先は決めてて……」

「遅いよぉぉぉ。時すでに遅しだよぉ。僕は今さっきロレアさんからお茶に誘われたかと思いきや、取引停止及び学院退校処分の書状を突きつけられて、ヤバイと気づき飛び出したものの、今まさに彼女の放った魔獣に追いかけられているところだよバカヤロー」

「なんだって!?」

 さすがのテオも顔面蒼白になる。

「乗れ。リン」

 テオは馬車の上から手を伸ばしてリンの手を掴み馬車の上に引きずり上げる。

「バカな。イリーウィアさんとの約束ではロレアを嵌めるのは来週のはずだろ。まだ彼女に大手商会からの手紙は届いてないはず。それに学院長って……なんで?」

「あの人はほんわかした雰囲気の割に意外と仕事が早いというか……なんていうか敏腕なんだ。今回も気を利かせて少し予定を早めたのかも」

「くそっ。なんてお姫様だよ。計算外だ。これじゃ予定が……」

「グオオオオオオオ」

 テオが悪態を吐くや否や地獄の底から響くようなケルベロスの唸り声が背後から聞こえてきた。

 テオは急いで御者の方に向き直る。

「御者さん。行き先変更。エレベーターのターミナルへ。早く。急いで。全速力で! チンタラ走ってたら魔獣に食われるぞ」



 アルフルドの一角を一両の馬車が異様なスピードで駆け抜けていく。

「どけっ。チンタラ歩いてんじゃねーよ。道を開けろ。死にてーのか!」

 馬車に乗ったヤンチャそうな少年が声を張り上げて道行く人々に罵声を浴びせながら、無理矢理道を開けさせる。

「うわっ、あぶねっ」

「ちょっと。何なのよ」

 馬車にぶつかりそうになったり、巻き上がった砂埃にさらされた人々が悪態を吐く。

 行き交う人々は馬車に乗る二人の少年を見て眉をしかめた。

 なんだあれは。あんなスピードで街中を走らせて。非常識な奴らだな、とでも言わんばかりに。

 そしてその後、後方に目をやると今度は顔を真っ青にする。

 三つの頭を持った巨大な猛犬が炎のたてがみをたなびかせて地響きを立てながらこちらに向かって突進してくるではないか!

 ケルベロスは路地に並べられた商品を吹き飛ばし通行中の人々を蹴飛ばしながら街道を疾駆する。

 たてがみの炎は触れたもの全てに燃え移り、辺り構わず被害を拡大させてゆく。

 ケルベロスの通った後は燃え切って煤になった花や青果類、店の看板、瓦礫が見るも無残な焼け野原と化し、巻き添えを食らった人々が転がりうずくまっていた。

「うわあああああ」

「きゃあああああ」

 人々はケルベロスを見るや否や慌ててその場から退避したり、建物の中に入り込み扉を固く閉ざしたりした。

 テオはその様子を見て青ざめる。

「大型の魔獣……しかも燃えてるじゃねーか。あんなのを街に放つなんて。何考えてんだよあのヤクザ女は!」

「テオ。このままじゃまずいよ。追いつかれる」

 ケルベロスはその巨体にもかかわらず俊敏で馬車を背負いながら走る馬よりもスピードが速かった。

 徐々に距離を詰めてきておりもうすでに馬車の上にいても炎のたてがみから発する熱気を感じ取ることができた。

「おい。もっと速く走らせられないのか」

「これが精一杯ですよ!」

 それを聞くや否やテオは荷台を地面に放り投げ、馬車の余計な部品を杖で破壊し始める。

「ちょっ、お客さん?」

「後で弁償するから。今はとにかく命あっての物種だ。リンこれを使え」

 テオは指輪をリンに向かって放り投げる。

 リンは馬車の後ろ側に乗り付け指輪に精神を集中させる。

(思い出せ。キメラを倒した時の感覚を。頼むっ)

 リンの指輪から光の剣が放たれケルベロスの頭の一つに直撃する。

 しかしケルベロスは光の剣を受けて倒れるどころか怯みすらせず、むしろたてがみの炎は勢いを増してスピードも速くなった。

「うっ、うそっ」

「光の剣が通じない。あの魔獣、光の剣から魔力を吸収できるのか」

 テオは馬の手綱さえ切ってしまう。馬車から解き放たれて馬は明後日の方向へと走って行った。

「ちょっ、お客さぁん」

「だから後で弁償するって。リン。しっかり捕まってろよ。車輪よ! 杖の力を受けて回れ。回転しろ。もっと速く!」

 テオが呪文を込めながら杖で馬車の車輪を叩くと今まで以上の速さで回転し始める。

 リンは慌てて馬車の内側に入り込み側面にしがみついた。

 馬車の車輪は火の粉を上げながらけたたましい音を立てて、飛ぶように街を走り抜ける。



 馬車とケルベロスの追いかけっこはアルフルドを流れる川に架かった橋の上まで達した。

 テオはギリギリまで荷物を減らし馬車の部品を破壊して骨抜きしたがそれでもケルベロスを振り切ることができなかった。

 一方でケルベロスの方はというと周りのものを燃やして吸収し、より一層炎の勢いと俊敏さを増していた。

「テオ。もう捨てられるものがない。このままじゃ追いつかれるよ」

「すまんがあんたも降りてくれ」

 橋の上を渡る途中、テオは御者を突き飛ばして川の中に落とした。

 ドボンと鈍い音を放って御者は川の中に沈んでしまう。

 さらにテオは自らの指に嵌めた指輪を光らせ、川面に魔法陣を描く。

「妖精よ。川の水を運び、上昇させ水滴にし、拡散させろ!」

(今の僕の妖精魔法では大量の水を操ることはできない。けれども霧状にして湿度を上げることくらいなら)

 テオの呪文に反応して妖精たちが川の水を運び、橋の上に霧を発生させる。

 しかしそれもケルベロスの上げる炎によって一瞬で蒸発し、吹き飛ばされてしまう。

「くそっ、ダメか」

 馬車は至る所を傷ませながら石畳の橋の上を駆け抜けていく。そのすぐ後をケルベロスが猛追した。

 リンは橋を渡っている間中、馬車の床部分が亀裂を発してメキメキと言わせたり、車輪がギシギシと音を軋ませているのを聞きながら生きた心地がしなかった。

 馬車の中でうずくまっていると背後から御者の上げるヤジが聞こえてくる。

「この人を人とも思わぬ魔導師どもがー。服代も弁償しろよバカヤロォー」




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