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では高坂麗奈に何と言うべきだったのか。「おかえりオーディション」反論例

 アニメ「響け!ユーフォニアム」が面白い。「涼宮ハルヒの憂鬱」から京アニ繋がりでユーフォニアムを見始めたのだけれど、これが正解でした。

 北宇治高校吹奏楽部の生徒は、若者らしく部活に一生懸命で好感がもてます。が、彼女らは一生懸命なだけに言い合いも多く、高校生だけに議論の中に誤謬が目立ちます。気になった誤謬を見ていきましょう。

⒈「自分たちの意思で決めてください」〜議論における誤謬例

(1)全国大会か、思い出づくりか。誤った二分法

 まずは「エピソード2 よろしくユーフォニアム」。滝先生は音楽室に入ってきて、こんな話を始めます。

滝先生:では部活を始めるにあたって、最初に私から話があります。私は生徒の自主性を重んじるというのをモットーにしています。ですので、今年一年指導していくにあたって、(チョークが不快音を出す)おおっと失礼。まず皆さんで今年の目標を決めてほしいのです。
(黒板に「全国大会出場」と書く)
これが、昨年度の皆さんの木曜でしたよね。
部員の一部:頑張ってはいるんだけどねえ
ハルカ:あの、先生。それは目標と言うか、スローガンみたいなもので。
なるほど。では、これは無かったことにしましょう。
では、決めてください。私はそれに従います。
ハルカ:決めるっていうのは……
滝先生:そのままの意味ですよ。皆さんが全国を目指したいと決めたら、練習も厳しくなります。反対に楽しい思い出を作るだけで十分というなら、ハードな練習は必要ありません。私自身はどちらでもいいと考えていますので、自分たちの意思で決めてください。
ハルカ:私たちで決めるんですか?
滝先生:そう言ったつもりですが。
ハルカ:え…。
アスカ:わかった、私書紀やるから、多数決で決めよう。
ハルカ:多数決?
アスカ:こんだけ人数いて他に決めようないじゃない? いいですよね、先生。
滝先生:どうぞ、みなさんの納得のいくようにしていただければ。
アスカ:ほら
ハルカ:それでは多数決で決めたいと思います。
クミコ:まずい、どうしよう。
ハルカ:えと……まず、全国大会出場を今年の目標にしたいという人
クミコ:どう……しよう。
(黄前が高坂を見る。高坂は右手をまっすぐに上げている。)
ハルカ:では次に、全国まで目指さなくてもいいと思う人。
滝先生:多数決の結果、全国大会を目標に活動していくことになります。
ご苦労さま。反対の人もいましたが、今決めた目標は、皆さん自身が決めた目標です。私はその目標に向って力を尽くしますが、努力するのは皆さん自身。その事を忘れないでください。わかりましたか。
部員:ハイ……
滝先生:何をぼうっとしているのです、返事は?
部員:ハイ
滝先生:もう一度言います。皆さん、わかりましたか
部員:ハイ!

響け!ユーフォニアム エピソード2

 この先生もたちが悪い。「生徒の自主性を……」なぞと口先で言っておきながらその実、やっていることは自分の意見の押しつけです。

 どうして選択肢が「全国大会出場」と「思い出づくり」の二つしかないのでしょうか。どうして両極端の目標のみが選択肢に上がっているのでしょう。別に中間があってもいいはず。例えば「目指せ金賞」でも良いでしょうし、「京都府大会出場」でもよかったわけです。あるいは別の方向性で、「楽器演奏の上達」が目標でも良かったし、「楽器演奏をとおした社会性の醸成」でも良かったわけです。話を過度に単純化して都合の良い結論を導こうとする議論を「誤った二分法」と言います。

 「誤った二分法」は詭弁ですが、これが詭弁たる所以は話を単純化して論点をずらすことだけではありません。先生の意図は、あくまでも自分の主張をとおすことにあります。「思い出づくり」という言葉が罠なのです。
 どうして先生はわざわざ「思い出づくり」という、いかにも怠惰で偸安かのような言葉を選んだのでしょうか。こんなネガティブな言葉を選択肢に含めたら、誰もこちらを選ぶ人はいなくなるでしょう。
 一般的に、やる気のない者は結果的にそうなるのであって、自分からわざわざ「やる気をなくそう」という者はいません。そうでなくとも北宇治高校の吹奏楽部には意識の高い生徒が多くいるのです。「ユーフォが好き」とか「トランペットが好き」、「練習やるぞ」とか「部活頑張るぞ」いう生徒が多くいます。そのような意識の高い生徒は、怠惰や偸安のレッテルを貼られた選択肢「思い出づくり」など選べるはずもなく、「吹奏楽へのやる気はあるけど全国までは……」と思っている生徒は手を上げることができません。「どうしよう」と下を向いた黄前の態度が素直なところでしょう。

 そして「誤った二分法」の最も注意すべき効果は、無責任を装いながら主張を押し付けられる、その狡猾さにあります。自分の意見を選択肢の一つに偽装することにより、「皆さんが決めてください」と無垢なふりをしながら、強引に物事を自分の都合の良い方に誘導するのです。
 滝先生の本心は始めから「全国大会出場」だと言っていいでしょう。音楽に精通していて、吹奏楽部を全国大会に持っていける実力がある。のであれば、わざわざその機会を逃すことはしません。
 けれど、吹奏楽部員に全国大会出場を目標とさせるにはハードルが1つあって、それは滝先生が(表面的には)良心的だということです。生徒にも敬語で接するし、性格も穏やかそう。口先だけにせよ「生徒の自主性がモットー」とも言っています。そんな滝先生は、「いいから全国大会出場が目標なんだよ!」と、生徒にムリに自分の主張を押し付けることはできません。
 そこで選ばれた策が、主張の選択肢への偽装です。全国大会出場を、選択肢の1つとして提示したのです。全国大会出場という本心をあくまでも可能性としてチラつかせる。そして「選ぶのは皆さんですよ」と自分の責任を回避する。他の選択肢を選べなくして、本命に誘導する。もしも目標を全国大会出場にして散々な結果に終わり、しかも練習に時間を費やして部員が受験勉強に失敗でもすれば、そこでも「選んだのは皆さんですよ」と涼しい顔をして言えるのです。
 全国大会出場か思い出づくりか、という2つの選択肢は、滝先生の狡猾さの現れであって、巧妙に仕立てられた罠なのです。

(2)「バカにしたら許さないから」〜力に訴える議論

次に「エピソード4 うたうよソルフェージュ」より。

ツカモト:待て待て、話があるんだよ。
クミコ:ん、なあに?
ツカモト:高坂のことなんだけどさ。
クミコ:高坂さん、何かしたの?
ツカモト:トランペットパートの先輩に、目ぇつけられてるみたいで。
(回想)
ツカモト:なんか先生に聞かれて、思ってること、ハッキリ言ったらしくてさ。
クミコ:そっかあ
ツカモト:いい先生なら、そういうとこもうまくフォローしてくれるんだろうけど。あの先生、吹奏楽部の顧問するのも初めてらしいし。
クミコ:そうなんだあ
ツカモト:ずうっと同じ練習させるし、強引だし、指導力があるかって言ったら……
レイナ:あるに決まってるでしょ。
ツカモト:えっ……
(振り向く)
ツカモト:高坂……
クミコ:なんでここに……
レイナ:アタシの家、この近くだし。
クミコ:見たことなかった。
レイナ:電車使ってなかったからじゃない? 私、自転車通学だから。言っとくけど、滝先生すごい人だから。バカにしたら許さないから。
ツカモト:あ、ああ
レイナ:わかった?
クミコ:……わかった。
ツカモト:別に馬鹿にしたわけじゃ……
レイナ:何か言った?
ツカモト:ひええ、何でもないです。
レイナ:ふん。

響け!ユーフォニアム エピソード4

 この「バカにしたら許さないから」のように、脅迫によって自分の主張を通すことを力に訴える議論と言います。皆さんの周りにも、このような力によってねじ伏せる意思の通し方をする人がいると思います。
 しかも上記場面は、非論理が論理を打ち負かすという、知性を標榜する者にとって目を疑う描写になっています。というのも、ツカモトは自説を論証しようとしていたのです。ツカモトが言おうとしていたのは、「滝先生は指導力がない」でしょう。彼は、その主張の根拠を並べている最中だったのです。「生徒どうしのイザコザをフォローしてくれない」「初めての吹奏楽部顧問である」「ずっと練習させられる」「強引である」。具体的事実の列挙から「指導力がない」という結論を導き出そうとしていた。そんな論理の手法を駆使して説得を試みていたツカモトが、レイナの力に訴える議論に言い負けたのは、「響け!ユーフォニアム」の非論理性を象徴するかのようです。

(3)「ハルカも断ればよかったんだよ」〜類似からの議論への反論

今度は「エピソード7 なきむしサクソフォン」から、この場面です。

アスカ:だめだよ、その情緒不安定なとこ直さないと。前にもカオリに言われたでしょ。部長は堂々として怖がられ……
ハルカ:だったらアスカが部長やればいいでしょ。アスカが断ったから私がやらなければならないことになったんだよ。アス……
アスカ:だったら、だったらハルカも断れば良かったんだよ。違う?

響け!ユーフォニアム エピソード7

 一見、アスカの議論は正しいように聞こえます。「断る」という選択肢があったにもかかわらず、ハルカはそれを採用しなかったのですから。それはプレッシャーに負けたハルカに責任があるように感じます。が、ここで簡単に「ハルカの責任」としては安直すぎます。本当に、断らなかったハルカは悪いのか。アスカに対して反論の余地はないのか。

 実は、この「だったらハルカも断れば良かったんだよ」というアスカのセリフに対しては、確立された反論方法があります。そのヒントは、他ならぬアスカ自身が提供しています。アスカのセリフをよく見てみましょう。「だったらハルカも断れば良かったんだよ」。このセリフに省略されている部分を補正すると、おそらくこうなります。「だったらハルカも私と同じように断れば良かったんだよ」と。おわかりでしょうか。アスカのこのセリフは、類似からの議論なのです。

 レトリック学者の香西秀信氏によると、類似からの議論は正義原則(公平の原則)によって説得力がもたらされます。「同じ範疇に属するもの(類似したもの)は同じように扱うべきである」という原則。例えば

ジャイアン:おい、ドラえもん。のび太に良い道具を出したそうじゃねえか。俺だってのび太と同じようにドラえもんの友だちなんだから、俺にも良い道具を出してくれるよな。

のような感じです。ジャイアンとのび太は、どちらもドラえもんにとって友だちという同じ範疇に属する。ドラえもんはのび太に良い道具をだした。であれば,のび太と同類のジャイアンにも良い道具を出すべき、という論法。この論法に説得力を出しているのが、「正義原則」という、私たち人間に備わった公理なのです。
 話をユーフォニアムに戻し、アスカの議論構造を明確にしましょう。

ハルカは部長を打診されたときに断ることができた。なぜなら、私(アスカ)も同じように部長を打診されて断れたのだから。

 ハルカとアスカは、どちらも「部長を打診された」という同じ範疇に属する。アスカは打診を断れた。であれば、ハルカも打診を断れるはず。これがアスカのセリフに説得力をもたらした正義原則の構造です。

 そして同じく香西氏によると、類似からの議論に反論するには方法は一つしか無く、それは類似を上回るほどの差異、違いを指摘することです。例えば、

ドラえもん:悪いんだけど、僕にとってジャイアンとのび太くんは違うんだ。僕はのび太くんを助けるために未来から来たんだ。だから僕とジャイアンの関係と、僕とのび太くんの関係は同じじゃないんだよ。

という感じ。ジャイアントのび太には、同じ範疇に属する以上の差異が認められるため、同じように扱えない、というわけです。

 エピソード7の場面も、アスカの場合とハルカの場合とで、違いを見つければいい、という事になります。この場合のアスカとハルカの違いは何が考えられるか。例えば「打診の順序」というのはどうでしょう。アスカのセリフから、部長の打診は「アスカ→ハルカ」であったと予想されます。アスカが断ったから、話はハルカに移った。であれば、ハルカが断れば後が無かったのではないか。3年生は他にもいたのかもしれませんが、少なくともアスカが打診を受けたときと、その後ハルカが打診を受けたときでは、残りの人員に違いがあった。アスカが部長を断った時は「じゃあハルカにすればいいや」で済んだものが、ハルカの場合はそのハルカに代わる者がいなかったことが考えられます。ですので、ハルカはアスカから「だったらハルカも断れば良かったんだよ。違う?」と言われたときに差異を示して反論できればよかったのです。例えばこんな感じに。

ハルカ:それは違う。アスカの場合と私との場合とでは状況が違っていた。アスカが部長を打診されたときは断っても私がいた。けれど、私が打診された時は断っても他に適任がいなかった。だから、アスカが断ったことを理由に「私も断ればよかった」とは言えない。

(4)「落ちたくせに何エラそうなこと言ってんの」〜人に訴える議論

 誤謬例の最後に、「エピソード11 おかえりオーディション」からこちらの議論を紹介します。

ナツキ:言っとくけど、悲しむのはカオリ先輩なんだからね。わかってるよね。
ユウコ:オーディションに落ちたくせに、何エラそうなこと言ってるの

響け!ユーフォニアム エピソード11

 こちらは典型的な人格攻撃となっています。本来、論者と論の内容とは別もの。それなのに、論者の人格をもって論の内容を否定しようとするのが、人に訴える議論です。
 例えば、ドロボーが「お金を盗むのは良くない」と言ったところで、確かに「お前が言うな」とは思いますが、「お金を盗むのは良くない」ことに変わりはありません。チカン野郎が「チカンをするのはやめよう」と言ったところで、確かに「お前が言うな」とは思いますが、「チカンはやめるべき」ことに変わりありません。論者と論の内容は別なのです。
 同様に、いくらナツキがオーディションを落ちたからと言って、エラそうなことを言っていけない理由にはなりません。オーディションに落ちたとしても、それどころか吹奏楽部に在籍しておらず、楽器を触ったことがなかったとしても、ダメなことはダメと言うべきです。真実とは、誰がオーディションで落ちたとか、楽器の演奏技術がどうとか、そのような些末な事とは独立して存在するのですから。

2.「私には関係ないですよね」〜高坂麗奈への反論例

 と、ここまで「響け!ユーフォニアム」の非論理的な議論をあげつらってきましたが、もちろん一部に論理的な議論も見られます。ここからが本記事の本丸になります。
 この場面、「エピソード11 おかえりオーディション」を見てみましょう。

ユウコ:ごめんね、急に
レイナ:いえ。話ってなんですか。
クミコ:レイナ……
レイナ:オーデションの話ですか。
ユウコ:うん……
レイナ:8時集合ですよ、時間。
ユウコ:ん……。あのね
レイナ:はい
ユウコ:私どうしても、どうしてもカオリ先輩にソロを吹いてほしいの。だから……お願い!
(頭を下げる)
レイナ:わざと、負けろって言うんですか?
ユウコ:バレたら、私が脅した事にしていい。いじめられたって言ってもらって構わない。だから……
レイナ:そんな事しなくてもオーディションでカオリ先輩が、私よりうまく吹けば良いんです。
ユウコ:わかってるよ。去年、カオリ先輩は部の中で一番うまかった。でも学年順で、ソロは全然練習もしてないような上級生が吹いて。それどころかカオリ先輩は、やめようとしていた一年生を引き止めるためにコンクールメンバー、辞退までしようとして。でも、皆んな辞めちゃって。そんなだから、コンクールでの演奏もめちゃくちゃで。
レイナ:関係ないですよね。私には関係ないことですよね。
ユウコ:そうね。関係ないよ。全然関係ない。でも、アナタには来年もある。再来年もある。滝先生だったらもっと部は良くなる。カオリ先輩は最後なの。今年が最後なの。だから……
(再度、頭を下げる)
レイナ:やめてください。
(ユウコの手が震えている)
レイナ:失礼します。
(レイナが教室を出る)
(教室から去っていく高坂をクミコが気づかれないように見つめる)

 レイナの「関係ないですよね」は論理的に正しい批判です。確かにカオリ先輩の人柄と、誰がソロを吹くべきかは関係ありません。人に訴える議論と同じことがここでも言えます。論者と論の内容は別に考えるべきなのです。カオリ先輩の個人的な人格と「誰もがソロを吹くべきか」という議論内容は別問題として扱うべきなのです。たとえカオリ先輩がどんなに善人であっても、「だからソロを吹くべき」とは言えません。カオリ先輩の善行をどんなに積んで並べ立てたとしても、「だからソロを吹くべき」という結論は得られないのです。

 が、論理的に正しいとは、反論の余地がないことを意味しません。論理的であることは、むしろ反論の可能性を示唆します。論理性は反論を許容しますから。
 例えば、「牛丼が一番だって言ってんだろ!」などと論理の欠片もない主張一点張りには反論ができません。が、ここに理由が加わると反論の余地が開けてきます。こんな感じです。

A:牛丼が一番だって言ってんだろ! 安いしうまいんだから
B:いや、安いしうまいのは牛丼の他にもあるよ。

 論理的であることは、主張が頑強な盾で守られていると同時に、そこを崩せれば王手をかけられるというチャンスでもあります。論理は人柄に関係なく誰にでも公平なので、主張したものの味方をするだけではありません。論理的とは、相手を説得する手段であると同時に、反論を受ける可能性をも意味するのです。

 では、レイナから「関係ないですよね」と言われたユウコはどう反論すればよかったのでしょうか。それから、レイナに「ソロはカオリ先輩が吹くべき」ことを説得するには、ユウコはどの様に議論を構成すればよかったのでしょうか。

(1)不用意な論証は控える

 まずは、余計な事を言うべきではありませんでした。「わざと負けて欲しい」を主張するためにカオリ先輩の人柄を語るべきでは無かったのです。たとえレイナが議論に精通していなくても、ユウコの拙い言い方では、相手に批判可能性を察知されてしまいます。「カオリ先輩はいい人。だからわざと負けて」という人に訴える議論の構図を、簡単に嗅ぎ取られてしまいす。
 議論は責めるよりも守る方が難しい。私たちは議論において自分の主張を論証しますが、議論の勝ち負けは自説を守りきれなかったときにつくことが多いもの。相手の論理的な責めに対して、反論できなかったときに沈黙に陥ってしまい、負けを認めることになるのです。なので、相手の責めを食らうような、不用意な論証はするべきではありませんでした。

(2)「関係なくない」ことの論証

 とは言え、実際に言ってしまったらどうすればいいのでしょうか。カオリ先輩の人柄を説明してしまって、相手から「関係ないですよね」と言われ、それに対して「関係あるよ」と反論できるでしょうか。レイナはこの「関係ないですよね」を鬼の首を取ったかのように声高に言っているので、ぜひとも反論してやりたい。
 このような反論はどうでしょう。「人の道」なんてのを持ち出すのです。構造のみを示すと

1.レイナはカオリ先輩の人柄に助けられている。
3.助けられた人に、恩を仇で返すのは人の道に反する。
4.レイナがソロを吹くと、カオリ先輩に恩を仇で返すことになる。
5.先生は「上手い人がソロを吹くべき」と言っている。
6.人の道は、先生の言う事よりも優先される。
よってカオリ先輩がソロを吹くべきであって、カオリ先輩の人柄と誰がソロを吹くべきかは関係ある。

という感じです。この構図に肉付けするとこうなります。

レイナ:関係ないですよね。私には関係ないことですよね。
ユウコ:関係なくないよ。だって、人のいいカオリ先輩からソロを奪ったら、アンタは恩を仇で返すことになるからね。アンタだってカオリ先輩の人柄に救われているじゃない。お弁当を一緒に食べたり、気を遣って声掛けられてもらったり、優しく接してもらってるじゃない。そんなに優しく接してもらっておいて……助けてもらっておいて……それなのにカオリ先輩からソロも奪うの? 恩を仇で返すことになるんだよ? それって、人の道から外れると思わない? それ(人の道から外れること)ってやってはいけないことでしょ? たとえ先生が「ソロは上手い人が吹く」って言ったって、人の道より大事なことってある? ないでしょう。カオリ先輩がソロを吹くべきなんだよ。だから、カオリ先輩の人柄は関係ないどころか、誰がソロを吹くべきかに大いに関係するんだよ。

 ここまで言えば、「それって関係ないですよね」というレイナの責めを、とりあえずは退けたことになります。展開してしまったカオリ先輩の人柄の話を回収しました。もしもレイナがユウコのこの反論に絶句したならば、ユウコにとってはイーブンどころか形成が逆転して有利な立場になります。

(3)「カオリ先輩がソロを吹くべき」ことの論証

 責めを退けたところで、改めてユウコの立場から考えてみましょう。どうすれば、カオリ先輩こそがソロにふさわしいことを高坂に納得させられるでしょうか。「カオリ先輩こそがそソロ」という主張に説得力をもたせるには、どのような理由づけが考えられるでしょうか。ユウコの主張を論証します。
 ユウコは作中の上記場面で、カオリ先輩のおかれた状況を断片ながら話していました。ユウコは舌っ足らずで、論理もヘチマもなかったのですが、このカオリ先輩のおかれた状況の断片をつなぎ合わせば、それなりに説得力のある理屈がつくれるかもしれません。私がユウコの気持ちを代弁して、意見を理屈でもって仕立てあげましょう。
 私なりに補正・解釈すると、ユウコの意見はこういうことになります。

1.カオリ先輩は昨年、部の中で一番うまかった。が、ソロは練習もしていない三年生が持っていった。
2.それどころか、やめようとしていた後輩を引き止めるため、コンクールメンバー辞退までしようとした。
3.そんなだから、コンクールの演奏もめちゃくちゃだった。
4.つまり、カオリ先輩は才能があって努力もしているのに、それに見合うだけの利益を得ていない。
5.才能も努力もしている者は、それに見合うだけの利益を得るべきである。
6.カオリ先輩が才能や努力に見合うだけの利益を得るにはコンクールでソロを吹くことであり、そのチャンスは今年しか無い。
7.コンクールでソロを吹くのは、カオリ先輩かレイナのどちらかである。
8.チャンスが今年しか無いカオリ先輩に対し、レイナには来年も再来年もチャンスがある。
 よって、今年はカオリ先輩がソロを吹くべき

 肉付けしてセリフにしてみます。

ユウコ:私は、カオリ先輩にソロを吹かせてあげたい。なぜなら、才能もあるし努力もしているカオリ先輩は、それに見合うだけの利益を得るべきだから。まず、去年、カオリ先輩は部の中で一番うまかった。でも学年順で、ソロは全然練習もしてないような上級生が吹いた。次に、カオリ先輩は、やめようとしていた一年生を引き止めるためにコンクールメンバーを辞退までしようとした。でも、それにもかかわらず、一年生は皆んな辞めてしまった。それから、コンクール前はそんなゴタゴタがあったから、カオリ先輩はろくに練習もできなくて、コンクールでの演奏もめちゃくちゃだった。つまり、カオリ先輩には才能があるし、部のために努力もしているのに、それに見合うだけの見返りを得ていないんだよ。才能もあるし努力もしているんだから、ソロを吹かせてあげたい。才能があって努力もしているのにチャンスを掴めない人がいたら、チャンスをあげたくなるでしょう。今年のソロはアンタかカオリ先輩だけど、アンタにはカオリ先輩と違ってまだ、今年ソロを吹けなくてもまだ吹くチャンスがある。来年も再来年も、部にいるのだから。だから、今年はアンタではなくてカオリ先輩がソロを吹くべきだと思う。

 こうして見ると、別に自己中な意見でもなんでもなく、至極真っ当な意見ですね。なのに作中では、レイナに良い負けてしまった感がありました。ユウコも、語尾が小さくなるような話し方でなく、もっと自信を持って語彙豊かに喋ればよかったのです。そうすれば、「それって関係ないですよね」なぞと言われること無く、さらには、なんら頭を下げる必要さえ無く、説得力でもって相手をねじ伏せられた可能性があるのです。

(4)レイナに理由を問う

 最後に、レイナへの責めを考えます。レイナのヒットポイントを減らしましょう。

 香西秀信氏は、自著「論理病をなおす!」の中で、こんな事を言っています。

 論争において、対立する両者は、自らの主張が相手のそれよりも正しいことを論証しようとする。が、その論証は直接的になされるよりも、相手の議論がいかに誤っているかを指摘することで、間接的になされることが多い。

香西秀信「論理病をなおす!」

 つまりユウコとレイナの議論の場合、ユウコは「カオリ先輩がソロを吹くべき」という意見を相手に説くよりも、レイナの「自分がソロを吹くべき」という意見が間違っていることを指摘する方が、「カオリ先輩がソロを吹くべき」であることを相手に納得させやすいのです。これは、自説に説明を加えることが骨の折れる作業であるのに対し、相手を批判することは骨を折らずとも簡単にできるからです。「揚げ足取り」などとも言われますが、相手の揚げ足を取ることは労せずとも出来るものなのです。

 相手の誤りを批判するには、相手の意見が論証されていることが必要です。我々が相手の意見を論理的に批判するには、理由の誤りを指摘するしかありません。主張はいかようにいっても批判はできないからです。もしも理由を無視して相手の主張のみを批判でもしたら、それではむしろ、批判者の方が理不尽で非論理的な態度を取っているように見えるでしょう。
 例えば、下記例ではBの態度は論理的とは言えません。Aの主張を批判している様は、自分勝手に見えます。

A:昼はトンカツが食べたいな。
B:トンカツなんて食べたくないよ

それに対して下記例であれば、Bの意見は知的な反論に見えます。

A:昼はトンカツが食べたいな。トンカツが美味しい季節だから。
B:トンカツが美味しい季節なんて無いよ。(だから、トンカツなんて食べなくていいよ)

 Aの主張そのものに反対しているのではなく、理由の誤りを指摘しているので、自分勝手さが影を潜めているのです。

(5)レイナへの問いを都合のいいように構成する

 さて、ユウコはレイナの意見の理由を責めるべきであることがわかりました。が、ここで問題があります。なんということか。レイナはソロを吹きたい理由を言っていないのです。

 レイナのセリフ「そんな事しなくてもオーディションでカオリ先輩が、私よりうまく吹けば良いんです。」から、「ソロは私(レイナ)が吹くべき」という主張を持っていることはわかります。が、これに理由がついていない。理由がついていなくては、ユウコは反論ができません。相手に反論したいが、相手の意見には理由がない。このようなときはどうするべきでしょうか。

 そのようなときは、相手に理由を問うてみましょう。どうしてソロを吹きたいのか、その理由をつけるように促すのです。けれど、ここでただ漠然と「アンタはどうしてソロを吹きたいの?」と問うたのでは、問いの強みを活かしていません。というのも、問いは一発で議論を制するほどの破壊力を秘めているのですから。再び香西秀信氏の著書を覗いてみましょう。

議論において、問いを出す側は一つの特権をもっています。それは、問いを構成する言葉を、自分に都合よく選ぶことができるということです。

香西秀信「レトリックと詭弁」

問いを出すものの特権ー問いを構成する言葉を自分の好きなように選ぶことができるーとはこういうことです。その選択を工夫することにより、相手がどんな答えをしても、自分に都合よく議論を展開させることができるのです。

香西秀信「レトリックと詭弁」

 もしもこの場面で、安直に「アンタはどうしてソロを吹きたいの?」とユウコが問うたなら、レイナは「だって、私は特別になりたいから……」などと答えるでしょう。それに対して「コンクールでソロを吹けば特別になれるの? アンタの言う特別って何?」などと追及しても良いのですが、どうせなら一発で沈めてしまいたい。香西氏の言う、「問いを構成する言葉を自分の好きなように選ぶことができる」とは、例えばこういうことです。

「どうしてアンタはカオリ先輩に意地悪するの?」

「ソロ吹く」ことを「カオリ先輩への意地悪」と言い換え、その理由を尋ねるのです。この問いに答えようとすると、レイナはカオリ先輩への意地悪を認めることになり、どんな理由をもってしてもそれはカオリ先輩への意地悪の理由になります。

レイナ:どうしてアンタはカオリ先輩に意地悪するの?
ユウコ:だって、私は特別になりたいから……
ユウコ:そう。だからカオリ先輩へ意地悪するの……

レイナ:どうしてアンタはカオリ先輩に意地悪するの?
ユウコ:だって、カオリ先輩より私のほうが上手いし、ソロは上手い人が吹くべきだから……
ユウコ:そう。だからカオリ先輩へ意地悪するの……

 どんなにマトモな理由を答えようとも、それは意地悪な行為の理由になりさがります。「ソロを吹きたい」というレイナの主張自体が、正当性のない、自分勝手な意見にされてしまうのです。

 このように、ユウコはレイナに十分、反論可能でした。「関係ないですよね」と居丈高に振る舞うレイナに対し、「関係なくないよ。なぜなら〜」と抗弁し、さらには「どうしてアンタはカオリ先輩に意地悪するの?」と質問すればよかったのです。こうすればユウコは劣勢に立たされること無く、頭を下げて謝罪どころか、純真無垢を装い、言葉を継げないでいるレイナを嘲笑いながら、自らの推しをソロ奏者に仕立て上げられたのです。

3.まとめ

 というわけで、「響け!ユーフォニアム」における議論を見てきました。私たちが日常で頻繁に行っており、いちいち気にもとめないほどの議論ですが、古くから(紀元前!)研究の対象とされており、議論法という確立された方法論があるのです。

 「全国大会化か、思い出づくりか」なんて言われたら、白黒に分けられるものではなく、その中間が合ってもよいのではないかと疑ってみる。
 「バカにしたら許さないから」と言われたら、脅迫によって自説をムリに通そうとしたところで物事の真偽は決められないことを指摘する。
 「ハルカも(私と同じように)断れば良かったんだよ」と言われたら、類似に寄る議論の構成を見抜き、「同じように」と言われている2つの立場の差異を探す。
 「落ちたくせに何エラそうなこと言ってんの」と言われたら、人と論は別であることを説明する。
 議論の際は、相手を責めるよりも相手からの責めをさばく方が難しいので、不用意な論証はしない。
 「関係ないですよね」と言われても、自信をもって自説を展開する。
 問う側は、問いを構成する言葉を自分の都合の良いように選べるので、議論において主導権を握る契機である。どう返しても相手が不利になるような言葉で問いを構成する。

 



参考

 議論法のまとめ。読むと、日常の議論が分類されて見える。各議論法への反論方法も記載されているので、日々の議論の返し方も見えてくる。


 本書の半分ほどを使って、問いを説明している。問いは偽装が容易である。疑問ゆえの問いも、相手を絶句に陥れる問いも、外見上は同じ。


 「人に訴える議論」は、一般的には非論理的な論法として扱われている。それに対して香西氏はこれを「むしろ論理的だ」と評する。「人に訴える議論」は論理的な、それともただの詭弁か。状況によって使い分けるのが良いのだろう。相手が使った場合は「非論理的だ」と非難し、自分が抗弁する場合は知らぬ顔をして論証に組み入れる。


 誤謬の分類は面白い。誤りだとわかっていても、それでも説得力がある。おそらく人間の思考とは、このような誤謬を許容しつつ世界を認識するように作られているのだ。故に、誤謬を知らないものは、たとえ相手が論証中に誤謬を犯しても、その事に気づかない。もしも相手の誤謬を詭弁の正式名で名指し、その誤りである所以を説明できたならば、相手にとって致命的な打撃となったであろうに。


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