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精霊による衝動。ロジカル・ハイの陶酔。論理的であることのメリット

教えるという喜劇。教育に伴うリスクとは

 教えるという行為は、ときに他人から滑稽に見られるものです。身の丈に合わないことを教えるのは、その典型と言えるでしょう。

 例えば、職場での教育における笑止の沙汰。新人に仕事を教えるのは、仕事を回す上で必要なこと。けれど、その職場において仕事に精通しているわけでもない、経験の浅い者が先輩風を吹かせて新人に仕事を教えようとしている光景を目にすることがあります。役職的に見ても経験的に見ても新人教育に適した人物は他にいるのに、わざわざ新人の前に出てその仕事のイロハを述べ立てる。場に合わない「教え風」を吹かせようとする姿は、時に見ていられないものです。

 ニュースで以前、キャンプでの教えたがりオジサンの記事を読んだことがあります。キャンプ初心者に対して、キャンプ玄人を装ってアレコレを教えたがる。普段、教える機会が少ない者も、キャンプでは玄人を装いやすいのでしょう。指示を出したい衝動に駆られるのでしょう。テント設営や炊事など、日常と違う知識が必要になるので。しかし、教えられるキャンプ初心者にしたらたまったものではありません。せっかくキャンプを楽しみに来たのに、どうしてオジサンにアレコレ指図されなければならないのでしょう。これでは楽しむどころではなくなります。この、非日常という環境を利用して背伸びをするのも、片腹痛いもの。「せっかくのキャンプが台無し」であることを思えば、怒りすら覚えるでしょう。

 「鍋奉行」という言葉もあります。これは、鍋料理に強いこだわりを持つ人のこと。鍋奉行は、味付けなり食材を入れる順番なり、色々と注文をつけます。鍋奉行も、キャンプでの教えたがりオジサンと根っこの部分では同じように思えます。つまり、玄人ぶりたいのです。鍋料理は数人で一つの鍋をつつく為、料理に対する知識が、他の人に露呈します。鍋奉行から見れば、数人で鍋を食べる機会は自分を披露する絶好のチャンス。「ここぞ」という場面でわざわざ出してくる鍋に対する玄人感は、鍋の味を減退させるスパイスとなるでしょう。

 このように、どうして人は他人に物事を教えたがるのでしょうか。というのも、教えるという行為には滑稽になるリスクがあるわけです。きちんと教えられればいいものの、自分の認識に反して、周りから見れば必要のない事をしているだけなのかもしれない。聞いていられないような馬鹿げた理屈の風呂敷を広げているのかもしれない。教える行為は危険です。にも関わらず、私たち人間は他人に教えたがります。「教える」のはそんなに魅力的なものなのでしょうか。

精霊に取り込まれたが故の衝動。なぜ人は教えたがるのか

 『饗宴』によれば、教えたい衝動はエロースの仕業ということになります。エロースの性質によるものであるが故に、愉悦を伴い、魅力的なのです。

 『饗宴』とは、西洋哲学の土台を作った哲学者プラトンによる著書。プラトンは著書で、自身が師と仰いだソクラテスに自分の主張を代弁させます。『饗宴』では、さらにディオティマという巫女から聞いた話としてソクラテスが話します。

 エロースとは精霊の名前です。貧乏神である母と、策略の神である父との間に生まれた精霊エロースは完全を求めます。母親の性質を受け継いでいるが故に自らは欠乏しており、父親の性質を受け継いでいるが故に完全を求めて策略を練ります。欲求というエロースの性質は、親譲りによるものです。

 エロースの完全を実現するための方法は、子をなすことです。神ならざる身では、完全たり得ることは不可能。エロース自身も精霊であって神ではない。だから、子孫を残すことで永遠の存在たり得ようとするのです。永遠の時を生きることはできない。けれど自分の代わりに自分の分身を残す。これは、永遠を求めて策を練った結果であり、完全たり得る手段なのです。不死を求め、それをかなえるために生殖という行為を求める。これを説明するため、『饗宴』の作中では細胞が例えとして持ち出されます。

 「人は子どものことから老年に至るまで、同一の人物だと言われる。だが、その人は同一の人物だと言われながらも、その構成要素は決して同じものではなく、たえず新しいものになり、また、ある部分は失われていくのだ。毛髪も肉も骨も血も、体全体がな。」

中澤務 訳、プラトン「饗宴」

 現代風に言えば車と一緒で、同じ車にずっと乗ろうとするとメンテが必要になるということです。オイルを替えたり、タイヤを替えたり、バッテリーを替えたり。同じ車に乗っていると言っても個々の部品が違えば別の車に乗っていると言え、個々の部品が違うと言っても全体として見れば同じ車にずっと乗っていると言える。人間の身体も車と同じです。同じでように見えても、細かく一つ一つ見ていけば同じでないものもある、ということです。

 ところで、「子をなす」とは肉体的な生殖のみを指すのではありません。例えば、建築や絵画も生殖と言えます。「作りたい」あるいは「描きたい」という欲求を満たしたが故に生まれたのが、建築物や絵画なのですから。エロースとは性的欲求のみではなく、欲求全般を指します。作りたいが故に作られたのが建築で、描きたいが故に描かれたのが絵画なら、建築や絵画という行為もまた生殖。より完全な存在を目指したい衝動・欲求は、すべてエロースの性質によるものなのです。

 そして、すべての欲求の中で最高峰の欲求が、知恵の欲求。つまり教えることだとプラトンは言います。若い時分は肉体的な欲求を求めるものの、それは次第により高位の欲求に進展していきます。肉体的な欲求から精神的な欲求へ。欲求の最終段階が、知恵の欲求であり、哲学であり、対話なのです。この辺りは、プラトンのソクラテス愛が現れているところ。ソクラテスは対話を得意としたと言います。「真実を知りたい」という欲求が生まれ、「あの人と話をすれば、いい考えが生まれるのではないか」と思い対話をして、その中からアイディアが浮かぶ。ソクラテスの代名詞である「対話」とは、プラトン流に言えば「真実を生むための精神的な交わり」なのであり、もっとも高次元のエロースなのです。

 というわけで、「教えたい」という欲求は、エロースで説明がつきます。私たちは、他人の身の丈に合わない教えに対して時に滑稽を感じますが、それは恋愛において身の丈に合わない相手にアタックするのにユーモアを感じるのと同じ。他人から見れば可笑しく見えるものの、当人にとってはそのようなリスクを消し飛ばして余りあるメリットを伴うものなのです。職場で知ったふうなことを言う先輩も、キャンプでの教えたがりオジサンも、鍋奉行も同じ。すべて、精霊エロースに取り込まれ、教えることに愉悦を感じているのです。

 もちろん、私もエロースに深く取り込まれている者の一人です。論理的な作文講座を開いているのですから。教えているのは説得の方法であり、自分の考えを伝播させ、自分の分身を後世に残す手段。他人へ教える手口を私が教えている。これ以上、エロースの仕業が顕著に表れた例は他にないでしょう。

交通違反者との議論。説得に伴う快楽とは

 説得は快楽を伴います。特に論理で相手をやり込めた場合、気持ちのいい優越感を感じます。それはおそらく、論理が人間の思考パターンの基本的な部分を作っているから。ものを見る・認識するという行為が、論理なくして成り立たないから。そして人間は論理的に物事を考えるために、非論理性を指摘・露呈されると苦しさと悔しさを感じるのです。逆に、論理で相手を反論できないまでに追い込むことは乱麻を断つごごとく気持ちがいい。

 私は以前、警察官をしていました。警察官は、議論の職業です。というのも、警察官は市民・県民のジャッジをする立場にあり、ジャッジされる側は犯罪や違反を認めたくないからです。

 警察官の仕事はジャッジです。治安を担うので、社会の枠からはみ出た人間にはみ出ている事を指摘して、指摘してもまだ直らないようなら社会から排除する、それが仕事です。犯罪被害の申告を受けたら捜査をするし、犯罪者や違反者を見つけたら捕まえます。スポーツでいうレフェリーと同じ。レフェリーが試合の中で規則に違反した選手を指摘して必要あらば排除するように、警察官は社会の中で、規則に違反した者を指摘し、必要あらば排除するのです。

 けれど、このジャッジが、される方としては面白くない。意図せず犯罪や違反行為をしている場合、犯罪や違反であることを指摘されるのは面白くありません。だって、自分は犯罪や違反の認識が無いわけですから。無いと思っているものを有ると指摘されるのは心外でしょう。また、意図して犯罪や違反行為をしていた場合でも、これを指摘されるのは面白くありません。自分はうまくやっているつもりだったのにそれを指摘されるのは、自分のアホさ加減を露呈することになりますから。上手に隠れているつもりなのに指摘されたら面目がありません。警察官から犯罪や違反を指摘されて、その者がすぐに悔い改めるのは架空の話。多くは指摘されたことに不満をもち、往生際悪く食い下がるのです。

 それ故、議論が始まります。犯罪者や違反者であることを認定したい警察官は、それを否定したい犯罪者や違反者に対して説得することになるのです。

一時停止線からは左右が見えない。後件否定式での反論

 例えば私は警察官をしていた頃、交通違反の取り締まりが得意でした。私が一時不停止違反を取締まる際に殺し文句にしていたのは、「一時停止線で止まったのであれば、左右は見えない。もしも左右が見えるところで止まったのであれば、そこは一時停止線ではない」でした。一時停止違反の違反者は、違反を指摘されると「車が来ているか確認するため、左右が見えるところで止まった」等とよく言います。止まったのであれば違反にならないと思ってのことでしょう。けれど、一時停止というのは止まる位置が決まっていて、それは停止線です。たとえ止まっていても、停止線で止まらなければ違反なのです。

 ここで用いるのが論理法則の後件否定式です。

「AならばB」が真だとすると、待遇の「BでないならばAでない」も真となります。したがって、「AならばB」=「BでないならばAでない」と「Bでない」が前提として言えるのならば、「Aでない」も言える、という話になります。「Bでない」と後件を否定することによって、結論「Aでない」を導くので後件否定式といいます。

仲島ひとみ・野矢茂樹「それゆけ! 論理さん」

 交差点において一時停止線は、左右が見えないくらい後ろにあります。一時停止線の位置からは左右の道路の先が見えず、そこから「右から車が来ている」とか「左から車が来ている」というのは判断がつきません。なので、「AならばB」つまり「一時停止線で止まったならば、左右が見えない」のです。ところが違反者は、「左右が見えるところで止まった」これはつまり「Bでない」であり、後件の否定です。ここから「Aでない」つまり「一時停止線で止まっていない」が言える、という話になるのです。

横断歩行者を優先しなくてはならない。規範的前提の提示

 それから、横断歩行者妨害違反の取締りでは、規範的前提を論拠として提示することで、違反者を説得していました。

 ここ数年、横断歩行者妨害という違反が注目されるようになってきました。新しくできた違反でもないのですが、近年になってこの違反の悪質性が注目されるようになったのだと思います。この違反は「横断歩道においては歩行者を優先させねばならない」というもの。信号のない横断歩道で、歩行者が車の往来が途切れるのを延々と待っている状況ってありますよね。ああいう場合に適用されます。このような場合、ドライバーは歩行者を優先させるため、横断歩道手前で停止し、歩行者が横断歩道を渡るのを待たなければなりません。横断歩道で歩行者が渡ろうとしているのにも関わらず、平然とその前を走り抜けるドライバーの危険性・悪質性が、全国的に注意を引くようになったのです。

 この横断歩行者妨害違反は、一時不停止違反と違って、それほど一般に知れ渡っていません。なので、ドライバーを捕まえて横断歩行者妨害違反を指摘すると、「なんですか? その違反」「どうして今のが違反なんですか?」という問いが、怒気とともに返ってきます。

 そこで、ドライバーに違反であること説得します。ダラダラと長く問答していたのでは、説得が論理的でありません。反論できないように、相手が沈黙におちいるように、論理でもって説明するのです。

法的な推論における法的基準(legal standard)の役割は、道徳に関する議論における道徳的な前提の役割に似ている。道徳を巡る対立では、裏付けとなる道徳的前提を示さないと論理的な解決に至らないのと同じように、裏付けとなる法律や判例、手続き上の基準を示さなければ、法的な争いは解決できない。

T・エドワード・デイマー「誤謬論入門 優れた議論の実践ガイド」

・横断歩道を歩行者が渡ろうとしていた場合、横断歩道の前で止まらなければなりません。(法的前提)
・あなたは今、歩行者が渡ろうとしているにも関わらず、横断歩道でとまりませんでした。(前提)
・だから、あなたは横断歩行者妨害違反の違反者なのです。(法的判断)

 どうでしょう。このように論理でもって説明すれば、反論するのはなかなか難しいはずです。

 本当のことを言えば、この説明への反論も十分に可能です。というか、論理的である限り反論はできるものです。論理は反論を許容しますから。けれど、反論するにも論理性が必要なのです。湧き上がる感情を抑えて、冷静に相手の言葉を吟味する姿勢です。車の運転という日常の中に突然に割って入ってきた、非日常の警察官。その警察官は普段、聞くこともない法律用語を振りかざして自分を違反者だと言う。そんな状況では、冷静に相手の言う説明を注意して聞くのが難しくなります。「何なんだよ、コイツ」という怒りが湧いてくるのです。けど、その感情に押されては冷静な判断ができません。もしも感情に押されて反論すれば、自分の非論理性が表に出ることになり、そんな状況はいい大人であれば不本意なはず。「そんなこと言われても納得できねーよ!」「言ってることの意味がわかんねーよ!」などと子どもじみた言い逃れをかざすことになります。湧いてくる怒りを抑えて、相手の言葉の反論ポイントを客観的に探る論理性でもって対処しなくては、まともな反論もできないのです。

ロジカル・ハイの陶酔。理屈の快感。

 哲学者の三浦俊彦氏は、著書「論理学入門 推論のセンスとテクニックのために」の「はじめに」のサブタイトルとして「ロジカル・ハイへの招待」という言葉を使っています。

目先の浅薄な自由にとらわれて性急な飛躍を夢見るのでは、新境地は開けない。論理にしたがった謙虚な努力の末にこそ真の飛躍が、ロジカル・ハイの陶酔が約束されるのである。

三浦俊彦「論理学入門 推論のセンスとテクニックのために」

 また、レトリック学者の香西秀信氏は著書「レトリックと詭弁 禁断の議論術講座」の中で、論理的であることの気持ち良さについて次のように述べています。

人間は論理的な生き物であり、論理を、理屈を通すことを最も重視するがゆえに、自分が論理で説得されることを嫌うのです。人間は、ただ無意識のうちに説得されるのではなく、自分が説得されていることを明確に意識しています。だから最も重要な論理で、理詰めで説得されることをあたかも精神の敗北のように感じ、それを自分で認めたくないわけです。
(中略)
議論というものを嫌っている人はたくさんいます。何が嫌いなのかといえば、自分が理屈で言い負かされる論破されるのが嫌いなのです。不愉快なのです。しかし逆に、自分が他人を理屈でやりこめることはじつに気持ちがいい。それは論理的な生き物である人間にとって、最も本質的な喜びを与えてくれます。

香西秀信「レトリックと詭弁 禁断の議論術講座」

 このように、論理的に説得することは、私たちに愉悦をもたらしてくれるのです。

 犯人を取調べすると、嘘をつかれることがあります。けれど、整合性を指摘することで、相手は嘘であることを認めます。嘘をつくと、説明に辻褄の合わないところが出てくるのです。例えば「ユニクロの商品タグのついた衣服が所持していたカバン内から出てきた」とか。これは、「ユニクロで万引きしていない」という主張と辻褄が合いません。ユニクロで万引きしていないのであれば、ユニクロの商品タグの付いた衣服が所持していたカバン内から出てくることはありませんから。これは矛盾であって、非論理的であることの顕著な指標です。矛盾を抱えること、矛盾を抱えていると見られることは苦しいもの。だから楽になりたくて、整合性を指摘された犯人は嘘を認めるのです。

 確かに、論理は快楽だけをもたらすのではありません。時として不幸ももたらします。誰彼構わず議論をふっかけ論破していれば、自分の周りから人が去り、不幸になるでしょう。

 けれど素知らぬ顔で使えるならば、論理に優る楽しみがない無いのも事実です。論理的であるのは最小限がいい。他人から議論をふっかけられた場合や、説得が必要な場合。しかも、何事もなかったように論理の力を使うのが望ましい。そうすれば、力自慢をするような臆面もない印象を与えるのを防げますから。相手に気を使い、十分な論理性を悟られないように、うまく装いながら説得する。相手がこちらの優越感に気づかない程の、相手が嫌味を感じない程までに高められた論理性が理想です。それほどの論理性を得られたならば、我々は周囲を説得し、自身の考えを伝播し、精霊エロースが満足するほどロジカル・ハイの陶酔を感じることでしょう。



参考









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