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格差って - 深夜の本音の置き所

商社である父が、許せなかった私

「これからの時代は、GDPじゃなくて、社会への貢献度を計るような指数の方が、絶対重要視されるよ!!」

大学生の娘pt.1

「なんで、〇〇社は人権侵害国である××国から輸入し続けるの?おかしくない?」

大学生の娘pt.2

商社に勤めて長い50過ぎの父に、私は痛烈な言葉を頻繁に浴びせる。なんて親思いに欠ける子供だろうか。

だが、こんな言葉を浴びせている自分に、先日ある転機が訪れた。
自分の考え方が、かなり端的で幼稚であるか、少し反省するに至った経緯を、お伝えしたい。

コメダ珈琲のモーニングを頬張りながら語る「格差」

きっかけは、友人との会話だ。
晩年夜型の私だが、その日は“朝活”を行う約束を立てていた。同じリベラルアーツ系の学校に通う友人と、コメダ珈琲のモーニングを頬張りながら

「お互いの大学によくいるタイプってどんな人?

「いやでも、そのタイプだったらうちにもいるかも」

など言い合いながら、他愛のないおしゃべりに勤しんだ。

しかし、久しぶりに会う友人と交わす会話を一通りコンプリートした後は、半ば予想通り、「格差」の話になった。そもそもお互い、記者職しばりで就活を進めていたタイプの人間である。

「社会を良くしたい・格差社会反対!」

みたいなマインドセットを持っているせいか、議論はすぐヒートアップした。入管法の改悪について、LGBT法案について。

自分たちの意見を言い合い、どうしたら差別や格差をなくせるのか、どうしたら自分たちが格差是正に貢献できるのか、本気で考えた。

そして、私たちのフラストレーションの矛先はまず法案を通した政治家に向けられ、そしてビジネスマンである親に、向けられた。

「どうして親と子でこんなにも考え方の分断があるんだろうか!」

大学生の悲鳴

どこの家庭でも、親と子の考え方の違いで、一悶着どころか何悶着もあるとは思うが、私たちは嘆いた。

前提として、お互いの父親は共にビジネスマンであったため、こんな鬱憤の声も、安易と曝け出せ、共感ベースの会話が成り立った。

そんなかんやで、悶々と思案を巡らせている中、常に自分の中にあったジレンマを口にした。

「でも、格差社会について問題意識を持てるようになったのってさ、、」

と、恐る恐る切り出した私。

「家庭環境に恵まれていたからっていう側面って、正直でかいよね」

格差社会に反対する人は、恵まれてて当事者意識を持っている人が、多い。

結局のところ、私たちはぬくぬくとした温かいところから、格差社会を批判しているんだ、痛烈に自覚させられた瞬間だった。

「リベラルアーツ系の大学に進学できたからこそ、世界の共通課題とか、グローバルゴール、格差社会について、問題意識を持ててさ」

「もし、大学に行く選択肢がそもそもなくて、専門学校行ってたら、格差なんて考えたかな?」

「リベラルアーツ教育の価値を理解してくれて、サポートしてくれる親は、実は一握りだよね、、」

どうやら、私たちは「ハイソなグレ」をしているらしい。(最近、仲良くなった友人が使っていた言葉が、なかなかキャッチーだったのでちょっと拝借)

何を隠そう、格差社会に対して“NO”の声を上げている私は、商社に勤めの父に、高い私大の学費を全額払ってもらっているのだ。

そして、何不自由なく、衣食住を与えてもらっている。

それでも、両親はそれなりに厳しかった。当然の如く門限もあるし、いい大学に入ってほしいという無言の圧は日々感じてた。だからこそ、大学入るまでは、

“受験をして、いい大学に入って、いい就職先について”

みたいな決められた道を歩くのに、嫌気がさして、鳥籠の中の鳥みたいに窮屈に感じていたし、特権なんて考えたこともなかった。

でも、大学に入ったことで、私は「自由に選択できる特権」を手に入れた。そして幸か不幸か、

「自分の本当にやりたいことに関して、悩む」特権も手に入れてしまった。

問題意識を持つためには、当事者であるべきか?

少し話は飛躍するが、私はLGBTQ当事者だ。マイノリティであることで、中高時代はそれなりに悩んだし、傷ついた。

だから、もしかしたら経済的に守られていなくても、当事者意識は強く持っていたと思う。

だけど、ここまで格差や差別問題に敏感になったかというと、私はそうではないと感じる。

私は、入管法に問題意識を持った時、難民申請が何回も却下されている人のALLYになりたいと心から思った。

でも、正直なところ人生に「余白」はあったから、自分以外の人に目を向ける「心の余白」が生まれたんだと思う。

これは、ある意味で人生の夏休みとも揶揄される私立大学で、のびのびと学ばせてもらえたかたこそ、得られた恩恵ではないだろうか。

想像力を働かせるには、この「心の余白」が必要なんじゃないだろうか。

こんなことを考え始めた。

この「心の余白」は、自分のしがらみや、抱えているあらゆるノイズから気分を切り離すことで、生まれる。

心に余白があればあるほど、世の中のことに目を向けやすくなるという論理は、いささか飛躍があるかもしれない。

だけど、social justice (=社会正義)に敏感になるには、一種の研ぎ澄まされたレーダーが必要だと考える。そしてこのレーダーは、社会の問題に目を向ける回数が増えることで、精度を増していく。

当事者意識を持つこととは、詰まるところ、”Putting yourself in someone else’s shoes”(「自分自身を相手の靴に入れる」つまり、相手の立場になって物事を考える、ということ)

であると考える。要するに「想像力」だ。想像力を働かせるには、知識を得ることが大切だし、自分以外のことに目を向けられるだけの「時間的・精神的・経済的な余裕」が必要。

このような文脈で考えたとき「当事者意識」という言葉は、急に嗜好品のような意味合いを持ち始め、この意識を持っている人は特権階級にいるような感覚を持ち始めてしまう。

だけど、本来はそうあるべきではない。この意識は、一部の人のみが育むことのできる素養であるべきでは断じてないと強く思うからこそ、国民教育ではなく、より中立的な国情教育を踏まえた上で、公民教育(Civic Education)へのアクセスがしやすい環境が形成されるべきだと感じる。

そして、教育で得られるものは何か。それは"ボキャブラリー"ではないだろうか?もし、「格差」に関する話が日々飛び交うような環境で育ったら、「格差」という単語に敏感になるのではないだろうか?

話がいささか飛躍してしまったが、社会問題に対する当事者意識というのは、自分が当事者である以外に、高価な教育によっても近しい意識が育まれるのだろう。

そんなことを考えた。

結論

この深夜の本音の置き所に、結論もクソもないだろうが、結論がないと文章的に不自然だと、高校時代の英語の先生に、たんまりとご教授いただいたので、付けてみた。

当事者意識について考え始めるとキリがないが、わかったことが2つ。

1つ目は、当事者意識という言葉は、自分の生活に余裕があるから、使えるということ(余裕があるから、他の問題について当事者意識を持てると言ったらいいだろうか)。

2つ目は、目の前のことに精一杯な人が世の中には大勢いるのに「当事者意識を持って」と言い立てるのは、暴力的であること。(環境問題なんかもそう。余裕がある人が、できる範囲で進めていけばいい。お金に余裕がない人が、例えば環境に優しくない選択しか選べない生活環境を強いられていたとして、それは誰からもその人の生活に口出す権利はないはずである)

また、考えが変わるかもしれない。

来年は、うまい具合に進路が定まれば、今ごろイギリスにいるだろう。

その時は、格差についてどう考えているか、振り返るのが今から楽しみである。

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