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オラシオさんの「発信したい人・しない人」を読んで

結構なショックと新たな視点、そして、かすかな希望が同時にやってきたので、オラシオさんの記事「発信したい人・しない人」を読んで思ったこと書き残そうと思う。

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オラシオさんは、「情報発信」と「発信」の違いを端的に、わかりやすい例を用いて紐解いてくれていた。

伝えたい欲求を満たそうとする行為の多くが、良質なコンテンツの欠落した「発信」になっている。(あっているかな。)

発信する、人に伝える、教えるという行いは、実は「ちゃんと伝えた」という充足感よりも「そういう行為を、自分がしている」という快感のほうがより強く、より即効性があります。

オラシオさんの視点に、ぐうの音も出ないわたしがいた。

いまnoteを始めたばかりだけれども、私は単に欲求を満たしているだけなのかも。備忘録、とかいう見た目かっこいい言葉をとってきて。

伝えるべき情報が伝わったか、という結果よりも、発信している自分に酔う。伝える過程に満足してしまう。いまの自分が仕事を終えて、疲れているにも関わらず、それでも時間を割いて行う行為の本性はこれなのか、と。


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読んでいて辛かった。いまの私はオラシオさんのお話にでてくるおっさんみたい。自分がこれを伝えたら喜んでくれるかな〜という勝手なご厄介を、ちょっと振り向いて、そうなのね、と優しく頷いてくれる女の子に、自分の切りのいいところまで話して「あげた」という勘違いさん。

いま、こんな自分に気付けて、正直よかった、と思う一方、ふりだし以前の穴に放られた気分でもある。

そもそも、コンテンツ、ってなんだ。

私がもっているすごい知識や面白い考え方、ってなんだ。

「コンテンツと発信行為の間をつなぐコンテンツ」

これはいったい。


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書くことを職業にしている人にずっと憧れていた。中学生から始めたブログは7年続いた。それはまさしく発信したいという欲求を満たすため。

数年経って、普通の大学生活を一通り楽しんだあと、学生団体に所属して、広報になった。広報という肩書きが、ただ、かっこよかったから。

その後、縁あってスタートアップでインターンをすることになる。ライターという肩書きを背負って。

そしてここ最近、noteを始めたいま、初めて、自分の発信という行為が、自己満足であることに気づいた。

いや、本当は結構前から気づいていたかもしれない。それでも自己欲求を満たす「発信」が、なくなると虚しいほどのものになっていたみたい。

けれども、中学生の時のブログのおかげで憧れの先輩をみつけ、大学は東京に出てきたし、学生団体で広報になったから、大学の外にでられたのも事実。そして、会社のスタートアップを経験し、数十万PVのなかに、リアルに自分の記事がたくさん入っている、という経験をした。一年半所属し、反応が山のように返ってきた。

嬉しかったんです、そこまで。

けれども、会社が大きくなるにつれて、コンテンツを根底から考える途方もない時間と苦労に辟易した。自分の未熟さだけが浮き立ってきて、失望した。家族が一人いなくなったタイミングで、そのショックにも押されつつ、あげく自分はライターに向いていないと勝手に決めつけてしまう。

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なぜ、書くを通じて発信するか。

いま、このフェーズを超えたい。次は、「何」こそが発信すべきコンテンツか。どうやってそのコンテンツを伝えるか。

インスタグラマーやトラベルライターは憧れではある一方、ちょっと違う?と思っていた、その、もやりの原因がオラシオさんの記事のおかげで少しわかった気がする。私が次に本当にしたい仕事は、そこにありそう。一度逃げたわたしに、「情報発信」ができるようになる日が来て欲しいとおもう。努力したいし、ホンモノを考えることをやめないようにしたい。

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現に私の周りには書くこと・発信することを仕事にしている人がいる。私は彼ら、彼女らを心の底から尊敬しているし、書くという仕事の時間・空間に少しでも共にいた身として、その本質をぶれずに伝える行為を私はしたい。

ただの発信かもしれないけれど、この10年で世界と、関わる人が格段に変わったのだから。


この感想文もきっと自己満足。でもいまはそれしかできない自分がいることも事実。これから本当にしたい仕事を自分で考えるときが来たみたい。

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