古典は大人のファンタジー

 子どもの頃……具体的には幼少期から中学くらいまで、ファンタジー文学が大好きだった。
 いたずらまじょこの絵本、果てしない物語、モモ、クレヨン王国物語、オズの魔法使い、ストラヴァガンザ、精霊の守り人、空色勾玉。
 シリーズで全巻読んだのが、ローワンシリーズ、デルトラクエストシリーズ、レイチェルシリーズ、ダレン・シャンシリーズ、サークル・オブ・マジックシリーズ、……そしてハリー・ポッター。
 ハリーポッターを読んだのは中学になってからだったけれど、今までで一番ハマって、関連本(魔法用語の解説や作品世界の解説本)をちょこちょこ買ってもらったおかげで、すっかり魔法の歴史やファンタジー用語に詳しくなった。
 それから、アーサー王物語を代表とした中世英雄物語や中世騎士物語も、ほとんどファンタジー作品といっていいかもしれない。

 子どもの頃、私の想像力は豊かで、本を読むとドラえもんの秘密どうぐ「絵本入りこみぐつ」のように、作品世界に降り立つことができた。本を開くこと=本の世界に旅行に行くことであった。ちなみにあの秘密どうぐには、初めて知ったときから今まで、ずっと憧れている。
 作品世界に降り立つ、というのを具体的に説明するならば、主人公と一体化するというよりは、主人公の背後霊になったような感覚だった。やっぱり主人公とイコールの存在にはなれないからだ。主人公が悩んだら、一緒に悩むというよりは応援していたし、主人公が解けない謎を先に解けたときには、後ろから応援しながら「早く気づいて!」とヒヤヒヤして、主人公に冷たくする人は睨み上げて、主人公に優しくしてくれる人には微笑みかける。主人公が見たものは自分も見ることができるし、時々、主人公が知り得ないことも知れてしまう。それは、物語の登場人物とは決して交わることを許されない、けれど本当は一番近くにいる存在という感覚で、本当に楽しかった。
 あの頃は確かにあの世界を見ていたし、匂いも嗅いで、奏でられる音楽は聴こえて、未知の料理も食べた気にさえなっていた。
 「ずっこけ三人組」や「かぎばあさん」シリーズなどの小学校を舞台にした児童文学も読んだけれど、それはファンタジーに顕著だった。

 しかし、その感覚は、高校生になった頃から徐々に薄れていった。

 原因は長らくわからなかった。本を読んでいる量やペースはそんなに変わらないのに、想像力が衰えたなんてことがあるのだろうか、と。
 大学生になってから原因に思い当たる。それはおそらく、「知識」が増えたからなのだ。

 どういうことかというと、国語の読解の授業で得た知識や、自分で小説を書くようになったことによる作者目線での知識が増えたことによって、世界の制作風景が透けて見えるようになってしまった…………つまり、今までは操り人形を操っている舞台だけが見えていたのが、大人になってもっと引きで見ることができるようになり、操っている人間が見えるようになってきた、ということである。
 これは悪いことではない。特に作る側に回ろうとするなら、絶対に必要なことである。しかし、その小説を読んでいるときに、元ネタになったであろうエピソードや、神話、作者の意図や、類似点を持つ作品との比較……そういうことが自動的に頭に浮かぶようになってしまったから、作品世界そのものを純粋に楽しむということはもはやできなくなってしまったのである。
 それは確かに何かの喪失であった。そして、ピーターパンの中で出てくる、「子供だけが妖精の粉で空を飛ぶことができる」という意味を理解したのである。


 こうして、知識の獲得と引き換えに、本の世界に旅行に行く権利を失った私であるが、大学になって、また似たような経験をすることができた。
 それが、「古典」である。

 古典を習いたての中学生の頃、文法の学習で手一杯で、作品世界を味わう余裕なんて無かった。現代語訳を読んでも、古典常識の知識を理解するまでは、なかなかピンとこなかった。(男女が直接顔を合わせられないとか、縁起が悪い日には外出しないとか、そういうあれそれである。)古典を真の意味で味わうためには、知識が必須なのだ。
 もちろん、古典を読んでいてもファンタジー作品と同じく他作品と比較してしまうことはあるし、昔ほど純粋に作品世界に没頭できるというほどではない。
 しかし、古典を学び、その生活を理解して(現代の感覚で厳密には理解し切れていないとしても)、ようやく作品の情景が目に浮かぶようになってきた。現代に伝わる雅楽も聴くことで、源氏物語に出てくる音楽の雰囲気もわかる。
 平家物語に出てくる登場人物の背景を知ることによって、作品世界にはっきりと描かれていない背景にまで心を馳せることで、人物はより立体的に浮かび上がり、ようやく彼らの背後霊としてそばに立てたような気がした。

 古典文学については、現代人のほとんどは初心者なのだ。そして、作品世界の描写を脳内に再現するためには、知識が必要。当時の常識が、あまりにもかけ離れているから。ファンタジーだって常識は違うじゃないか、と思われるかも知れないが、根本的に違うのは、ファンタジーは、「読者の世界の常識と作品世界の常識が違うことを念頭に置いて書かれている」ということ。たとえ自然体で書かれているように見えても、やはり読者が理解できるような工夫がされている。古典文学の場合、「読者も同じ常識を共有していることを前提として書かれている」ために、どうしても読みにくさが発生するのである。
 それを補う知識を子どものうちに獲得するには時間がかかるから、今までの積み重ねで対応できる大人の特権と言える。

 だから、私は大人が古典の世界に遊びにいけるお手伝いができたら、と思って、面白い古典文学は積極的に現代に引き寄せて紹介していきたいと思っているのだ。

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