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アメリカから家族を想う。贈り物って、尊い。

去年、アメリカに移住した。

夫の仕事がアメリカに拠点を移したため、妻である私も帯同することになったのだ。
移住の作業は想像以上に目まぐるしく、日本の住居の引き払い、家具家電の後始末、住民票や役所関係、銀行口座をどうするか、お世話になった人や友達への挨拶…。やること目白押しな中、夫は先にアメリカに旅立った。

ひとり、日本に取り残された私は残った手続きを済ませながら、東京の実家に戻ることに。
結婚してから初めての実家での暮らし。
私には兄が一人いるのだが、兄も私と同じタイミングで結婚し、実家から離れた。生まれてから24年間、ずっと家族4人で暮らしていたのに、偶然が重なり私も兄も同時に家を出たのだ。両親はまるで巣立つ小鳥を見守るように、目を細めながら、口をまごつかせながら、それでも溢れんばかりの愛情で送り出してくれた。

でも、寂しかったのだと思う。

会う頻度は極端に減り、日常のむすっとしたことやクスっとしたことをスマホを見ながら「ふーん」「へー」とお互いに興味なさそうに話したり、お笑いを一緒に観ながら評論家のように批評したり、野球ばかり観たがる父とドラマにはまっている母のリモコンの戦いが繰り広げられたり。そんな、何でもないひとときが、なくなってしまった。

だから、久しぶりの実家での暮らしは、なんだか懐かしい香りを嗅いで想い出が蘇るような、そんなあたたかい日々だった。

私の好みを誰よりも知り尽くした母の手料理は、どんな三ツ星レストランよりも私の心を癒し、舌をはずませ、お腹を幸せでいっぱいにしてくれた。私の悩みなんてお見通しな父は、仕事の悩みもスパっと切れ味よく切り捨てて、暗闇から救い出してくれた。

ああ、私はこのふたりの子なんだ。

そんな当たり前のことを噛みしめさせてくれるほどに、とろけるような心地よさがそこにはあった。

実家暮らしが2か月経つ頃、ついに私の渡航日がやって来た。

渡航直前、ひたすらに甘えっぱなしだった両親に感謝の気持ちを込めてささやかなプレゼントを渡した。
母には、「一度食べてみたい!」と息まいていた栗のお店の栗羊羹、父には、昔から愛してやまない、ストックがなくなると機嫌が悪くなるほど大好きな柿の種・ピーナッツなしバージョン。
値段にしたらとてもかわいいのだけど、ふたりの好みを誰よりも知り尽くしている娘だからこそプレゼントできるものたちで、両親はそれはそれは喜んだ。

ふたりのはにかみながら、目をちょっと伏せてから「ありがとう」と言った後お互いを見つめ合うその姿を見ながら、私はふと思った。

「あと何回、家族に直接プレゼントを渡せるだろうか?」

私たちはアメリカへの移住で、駐在のように期間が決まっているものではない。自分たちで日本に帰りたいと思えば帰ることは出来るけど、10年20年も、もしかしたら、一生、アメリカや海外に住むかもしれない。

そしていつ、新型コロナウイルスのような予期せぬ事態が起きて日本にいる家族と会えなくなるかわからない。

そう思うと、喜ぶ両親を横目にじんわりと目頭が熱くなるのを感じた。

大好きなのに、離れたくないのに。こんなにも、ありがとうが言いたいのに。まだまだ、恩返しできていないのに。

それが簡単にできなくなってしまう。

アメリカに行くこと、夫にもうすぐ会えることは楽しみで仕方がなかったのに、急に離れたくなくなってしまった。

でも、同時に、ささやかなプレゼントを贈って気づいた。

プレゼントって最強かもしれない。

感謝には色んな伝え方がある。
会って直接伝える、手紙にする、電話する、テレビ電話かもしれない。
その中でプレゼントは、お金も時間も想いも全部かかる、一番面倒なもの。

いつあげるか、何にしようか、買いに行く場所は、予算は、ラッピングは、日持ちは、隠しておく?いろ~~~んな考えることがある。
たっくさんのハードルを乗り越えた末に行きつく、想いを包み込んだもの。
その時間と労力を想像させる。
どれだけ、自分のことを想ってくれているかが言葉にしなくても、そばにいなくても、プレゼントが全部物語ってくれる。

尊い。

なんてことのないものだけど、栗羊羹は、母が行きたがっていたお店がデパートに期間限定出店の情報をネットでキャッチし、わざわざ朝早くに行って整理券をもらって買ったもの。
父への柿の種・ピーナッツなしバージョンは家の近くでもネットでも売り切れで、がたんごとんと、電車で2時間離れた父の実家近くまで行って手に入れたもの。

価格はかわいくても、ふたりの喜ぶ姿が見たくて、久しぶりに一緒に過ごせたのが嬉しくて、でも終わりがあるのが物寂しくて、そんな葛藤の中、プレゼントを渡そうと決めた。
栗羊羹を並んで待っている時も、柿の種のために電車に揺られている時も、喜んでくれるかなあ、と少し不安におそわれながら、でもこれが2人の好きなものだから大丈夫、と言い聞かせていた。

その時間こそ、離れていても、想いを何より表している。

これだ。

そばにいなくても、想いをのせることができる。

プレゼントが最強なんじゃないか。

まだ、私にだってできることがある。これで終わりなんかじゃない。

そう思ったら、熱くなった目頭がスーッと、決意の瞳に変化したのを感じた。

***

私は、今、アメリカに住んでいる。

前みたいに、母が好きそうなお店を見つけてはデートに誘い出したり、夫がいない夜に実家にふらっと立ち寄って父とお酒を飲みかわすことも、出来ない。

でも、近くにいなくても。
おしゃれなカフェに入ったら、思わず「このブルーベリースコーン、お母さんきっと好きだろうな」「このカフェの雰囲気気に入るだろうな」と考えたり、新しい公園に行く度に「お父さん、きっとここで永遠に本を読んでいるんだろうなあ」と微笑んだり。
離れていても、考えている。
想い出している。

電話もしないし、LINEだって時たま用がある時くらい。
でも、家族だから。かけがえのない家族だから。
誰よりも感謝している人たちだから。

ふたりのあの、照れ隠しをしながら、もごもごしながら、でも嬉しそうにプレゼントを眺めて大事にしまう姿をまた見たいから。

だから、私はこの遠い地から、プレゼントを贈る。


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