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【甘え上手】と【ワガママ】の境界についての考察


むかしむかし、「甘え」と「ワガママ」の隙間に、“魔物”が住んでいました。



元恋人「今晩会いたいな」

私「うん、いいよ」

元恋人「俺んちでいい?」

私「うん、いくね」


いや、本当のところ、昨晩友人と朝まで呑んだので、まったく気分が乗らないのである。それに、会いたいならあなたが会いに来てよ。

けれども、“魔物”は、私の行手を阻む。

「二日酔いで会いたくないは、ワガママなのでは?」とか、「別に約束してたわけじゃないし、それくらいはセーフっしょ」とか、散々私を悩ませてくる。
挙げ句の果てには、「相手に嫌な思いをさせたくないなら、言いなりになるのが手っ取り早いよ」と囁いてくる。


言いなりになったところで、私が幸せにならないことくらい、もちろんわかっている。

げんに、言いなりになりまくったせいで、彼は『元』恋人になってしまった。彼だけでなく、元元恋人にも、元元元恋人にも、その度に本音で話せないのが耐えられなくなり、結果、私は別れを選択してきた。

もちろん同様に、友人に対しても、仕事仲間に対しても、私は「甘え上手」になれない。つまり、人が嫌がることを率先してやるタイプ、都合のいい人、八方美人、イエスマンです。


きっと、平和的な日常生活にヒビを入れたくなければ、この「他者に本音をぶつけられない」という問題は早急に解決すべきなのだろうな…


ところがどうでしょう、気がつけば、30代の山が迫ってくるではありませんか。
何度恋人と別れようとも、都合のいい人になろうとも、依然として“魔物”に打ち勝てないでいるという、悲しい事実とともに私は大人になってゆくのか——。


そんな私は、この問題を解決するべく、自分に対して次の2つの問いかけをしてみた。

  • 問いかけ⑴
    「相手に嫌な思いをさせたくない」というのは、本質的には「自分が嫌なヤツだと思われたくない」という意味ではないか?

  • 問いかけ⑵
    相手と自分が想像する「嫌なこと」は、同一なのか?


ははん。どうやら“魔物”倒しのつるぎが見つかりそうなので、考察してみる。


問いかけ⑴

簡単に言えば、「嫌われる勇気がない」ということだ。

自分の言動のせいで、もし相手が傷ついてしまったら——?
私は嫌われるかもしれない。関係性が悪くなるかもしれない。

そうなれば、私のその言動は「ワガママ」になりうる。
「ワガママな人」認定されるくらいなら、相手の言いなりになっておこう。

こういう心理だ。

(※ちなみに私の場合、家族にだけは甘えられる。これはおそらく、たとえ家族に「ワガママ」だと思われたとしても、決して嫌われることはないだろうという安心感によるものと考えられる。)


問いかけ⑵

そもそも、自分と相手は異なる人間だ、という考え方。

つまり、好き嫌いは人によって違う。

もちろん、食事中にコップの水をかけるとか、SNSに「あいつは実はハゲている」と書き込むとか、PCのファイルを勝手に全削除するとか、そういうのはよろしくないだろう。

ただ、「二日酔いで会えない」ことは、相手はOKかもしれない。あるいは、NGかもしれない。
そんなことは相手に直接聞いてみない限り、私には分かり得ない。



わっはっは。ここまでくれば、もう“魔物”は私に太刀打ちできないだろう。


「相手のためを思って行動したのに…」とよく言うけれど、実際に相手が「これは好きでこれは嫌い」と明言していない限り、結局その行動は自分の保身のためでしかないのだ。そのほうが、よほど「ワガママ」ではないか。

本当に相手のためを思って行動したいのなら、まず、相手に聞くことだ。
「私はこういう考えを持っているのだけれど、どうかしら?」と打診してみる。これが、「甘え上手」だ。
もし打診して、ダメだったら、別の方法を考えればいい。もう少しお互いに歩み寄る余地があるのなら、そうするべきだし、どうしても妥協できないのなら、それは本当にダメなのだ。ただ、ダメだったという事実がそこにあるだけだから、気にするな。


逆に言えば、「私はこれが好き。でもこれは嫌いなの」と積極的に発信することも、健全な人間関係を構築する上で重要になる。
そのうち、周囲の人たちも「あの人は自分の意思をしっかりと持った人だ」と認識した上で、こちらに接してくるようになる。晴れて、都合のいい人卒業です。

つまり、「甘え上手」になるということは、他者と自己の間に「境界線」を引くということだ。(心理学ではこれを、「バウンダリー」と呼ぶらしい。)



つるぎ:嫌なことは、嫌だとハッキリ言っていい。


”魔物”は、死にました。
めでたしめでたし。


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