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生きるとか死ぬとか

あっという間に今年が終わった。
といっても色々あった訳だが。

東京から地元へ戻ったり、ラジオ投稿を頑張ったり、
一方で祖父が死んだり、猫が脱走したり。
で、結局今年も童貞のままだったり。
一説にはあと数年で魔法使いへのジョブチェンジが
可能になるとか。
それなら迷いなく僕は催眠系の魔法を使えるように
なりたい…ってこういうこと言うからいつまで
経っても童貞のままなんだろうね。

とはいえ。
今年はいろんな方が亡くなられている。
自分が子どもの頃には既に当たり前のように
お茶の間にいた人が、ある日突然姿を消す。
そんな時、迷い、悲しみ、逆に喜ぶ人がいたり。
良くも悪くも色んな心境にはなるのは至極当然の
ことだろう。

こんな表現は何番煎じだと言われるかもしれないが
生き物としてこの世に生まれ落ちた瞬間から、僕ら
は死という終着点に向かってゆっくりとその歩みを
始めている。

たとえどんな功績を残しても、どんな悪事を働いても、どんなに健康に気を遣っても、どんなに不摂生な
生活を続けても、最後に行き着くのは死。
あくまで清く正しく美しく、そして長く生きられたか
どうかというプロセスの域を超えない。

…と、それっぽいことを書いている僕だけど、じゃあ
お前、死ぬのが怖くないのかと言われると嘘になる。
怖いに決まっている。
今、こうして自分の意識で読み書きをして、歩いて、
笑って、怒って、それが出来なくなる。
死んだように眠るという表現があるが、その目を
閉じて心臓が止まった瞬間、自分がどうなるのか。
この意識はどうなるのか。
そんなことを想像するだけで震えが止まらなくなる。

今回は、生きるとか死ぬとか、そんなことを最近自分
の中で感じることが増えたので、思ったことを
とりあえず書き出してみた。
例によってまとまりのない文章な気がすごくするが、
何か生き方、そして死の迎え方についてヒントを授ける
ことができたらいいなと思う。

【死を意識する瞬間】


早速だが、僕は死を意識する瞬間が2つある。

それは、1人で風呂に入っている時。
もう一つは、家族と一緒にいる時。

まずは前者。
1人でという書き方をしているが、別にそこに深い
意味はない。
ただ、1人でいる時間の中でも特に風呂に入っている
時が死の意識に苛まれるということだ。

理由は2つ。
1つは小さい頃に溺れたこと。
息が吸えない恐怖に驚き、ただただ怖くなって泣いた。
もうあれから20年近く経つのでその頃ほどの恐怖は
感じていないが、この経験が逆に死を身近に感じ
させるものになっていることも事実。

「どうしてもどうしても死にたくてたまらないと
思った時、風呂で溺れたら、きっと死ねるんだ」と。

もう1つの理由は、裸であること。
人間は裸で生まれてくる。
つまり、この世に生を受け、産み落とされた瞬間と
同じ姿をしている。
そして生まれてくるということは、いつかは死ぬと
いうこと。
僕にとって裸とは、(随分無理矢理感は否めないが)
死の象徴でもあるということだ。
総じて、1人で風呂に入っている時に恐怖を覚える。

そして死を意識するもう1つの瞬間。
それは、家族といる時。
僕の両親は自分の年齢の倍近く上。
つまり、日本の平均寿命で言えば、せいぜい生きられる
のは、あと20〜25年ほど。

以前、NHKでやっている「チコちゃんに叱られる」で
親と一緒に過ごせる時間は1年間でたった1日しかないと
紹介されていた。

考えてみてほしい。
一緒に過ごしている時間で考えたら、もう1ヶ月後には
親はこの世を去っていることになる。
もちろんその間、病気等があれば短くなる。
なんとも恐ろしい話ではないだろうか。

だから、自分より先に年老いていく者たちと一緒に
いる時に死を意識するのは、当たり前のことだと
僕は思う。


【生きるとは、死ぬことをほんの少し忘れること】


メメントモリという言葉を知っているだろうか。
モンストだ!と思った人、お茶でも飲んで一旦
落ち着こう。

メメントモリとは、ラテン語で「いつか必ず死ぬこと
を忘るな」とか「死を想え」といった、いわゆる
「死生観」という意味を持つ。

前述の死ぬとかどうとかの話というのは、とどのつまり
このメメントモリという言葉で言い表せてしまう。
もっと噛み砕いて言えば、

どうせいつか死ぬんだから今を大事にしなあかんよ

となるだろう。
「そういうの聞いたことある」となるのではないか。

僕は結構なひねくれ者。
こういう言葉が嫌いで、自分なりに解釈をしたがる。
だから、かなり捻じ曲げてこう考えるようにした。

生きる」とは、死をほんの少し忘れるための行動。

生きてる!って実感する時、大概の人は喜びを覚える。
そして、自分がいつかは死ぬって考えがほんのわずか
だが、どこかへ飛んでいく。
生を意識した時、とても素晴らしい気持ちになる。

つまり自分が「今、生きている!」と実感する時って
いうのは、自分にとって最悪のケースであり、決して
逆らうことの出来ない「死」をほんの少しでも考えず
にいられるということ。

死ぬ事を少し忘れ、そこから何か楽しめることを

見出すために僕たちは生きている。


自分は、そう考えたら少し心がスッキリした。
どうせ死ぬことは分かっている。
なら、死ぬんだって事を忘れるくらい、生きている
って実感できる瞬間を増やせばいいだけの話。

ぼんやり休んでいると死を意識し、そんな休む暇すら
ないほど何かに追われる日々を過ごしていると、死を
忘れられる。
でも休みなく働けば、体や心は壊れ、死に直結する。
なんとも滑稽な話だが、生きる事、そして何かに
夢中になることで人は死の恐怖からほんの少しでも
解放されるのだろう。

とにかく、生きてみよう。
そして、何かしてみよう。
それが死を忘れられることにつながるかもしれない。

ではでは、良いお年を。

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