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掌編小説 珈琲

「わたしは今より過去の方が大切なの、だから珈琲を飲むの、不思議な子ぶるのならばブラックの珈琲は選択しないはずなの、多分ミルクセーキあたりが妥当だと思うでしょ?アールグレイの紅茶を飲むのはセンスがいいと思われたい人かな…、五官が発達しているというアピールかもしれない。紅茶が好きな人は前向きで珈琲を好む人は過去にとらわれがち。え、逆なのかな?でもそんな気がするな。だってさ、相棒の右京さん滅茶苦茶高いところで持ったティーポットから手元にあるカップに紅茶を注ぐよね、あんなの自分に自信がある人にしかできないよ。」

「わたしこの間鳩を掴んだの。川沿いに鳩が集まる場所があるのね。そこで本当は餌をやってはいけないのだけど一羽の鳩を餌付けしてるんだ。その子は右足の爪が一本欠けていて見分けがつきやすいんだ。食パンの耳をくちばしに近づけて食べるのに夢中になっているから静かに両手で体を掴んでみたの。鳩が豆鉄砲を食らったようってあのことを言うんだね。目玉をまん丸にして震えてた。わたし最低なことしたと思ってすぐに手を離したら飛ばずにとぼとぼ歩いていた。気分は最低だった二度としないわ。」

そこまで話して妹はだまる。
その話の間私は新しく買った靴のことを思っている。私の持っているどの洋服にも合わないから表には履いていかない可能性が高い靴、華奢なヒールの紫色のストラップシューズ。足が疲れるからと普段はスニーカーしか履かないのにフォルムに惹かれて買ってしまった靴たちの顔ぶれが思い出される。アスファルトを踏まず部屋から出られない靴たち。私の部屋は靴たちの檻。

「わたし一度だけ男の人を好きになったわ、その人は素敵な人だった、薬品でなんの薬品だかはわからないけどジーンズに穴があいちゃってたけどまぁダメージジーンズってあるから大丈夫か二人でミスタードーナツに入ったんだけどわたしは世界を救いたいって言ったらきみは本当に不思議な人だねってわたしの口元についていたゴールデンチョコレートのかすを取ってくれたの。その時もわたしブラック珈琲を飲んでた、おかわり自由だったから。」

この話も何度目だろうか、もうとっくに幸せな家庭を持ってるはずの彼との話。繰り返すとっておきの思い出。
多弁な妹は興奮状態にあるようだ。
リラックスさせないといけない。
そろそろ私のターン、ホットトピックスの召喚。

「図書館でね凄く背の高い人で指がきれいな人がいてね。年齢は20代後半ぐらいかな?でね、私は巻きずしの本を探してて、その人はスパイスカレーの本を物色してたの。図書館は通路が狭いでしょ。二人の距離が近づいてしまって。その人と指が触れてしまってどきどきしてたら、いきなり付き合ってくださいって言われて、私にはスパイスカレーは作れませんって断ったの。」

ダウト!

図書館に自分の好みのかっこいい人がいたのは多分本当。お姉ちゃん、目があったぐらいのことを告白されたとねじまげちゃった?
妄想がものすごいな。
作り話もよくある。
いらないものをがんがん買ったりすることもある。
お姉ちゃんのことは好きだよ。
好き嫌いと面倒くささは別の次元のお話。
廊下でヒールを履いて真顔でカツカツとモデルウォークしているのを見たとき、わたしは溜息を漏らさずにはいられなかった。
モデルとしてパリコレにでも招聘されたのか、姉よ。
床が痛むよ。
洋服を着たまま湯に浸かったり、突然何かにとりつかれたように踊り出したり。
奇行があるだけでそれ以外はお姉ちゃんはいたって常人だ。異常にみえて通常運転なのだ。何らかの病気ではないとわたしは踏んでいる。たしかにある部分が狂ってるときもあるけどちゃんと還ってこられる。
父は頭がおかしいから病院に行けと言い続けている。
ここでの病院はメンタルの病院のことだけど、行っても何の病名もつかないんじゃないのかな。

「わたしね、多分地獄におちるんだと思うな、昔草に止まっているとんぼを捕まえようとしてとんぼの眼の前でくるくる指を回してたのね、とんぼの眼をまわして気絶させようとして。そうしたら手元が狂って指がとんぼの頭に直撃したの。とんぼくびちょんぱでそれを十回くらいやっちゃったんだ。十匹のトンボの虐殺は何地獄に相当するのかなって。でも虫一匹と人一人の命は同等なんだとしたらきちんとした地獄につとめなきゃいけないね。」

急に妹のテンションは落ちる。

「ほれほれ。そういう時はね、お風呂であたたまって脳をほぐすしかないのよ。あんたはかわいそうじゃない、あんたはかわいそうじゃない。地獄に堕ちるわけがない。」

「どうしてお姉ちゃんは風呂に入らせようとするのかな、わたし臭い?臭い?!臭いのかな?臭かったらどうしよ。わたしかわいそうなの?!なんでなんでなんでなんで?へんてこなお姉ちゃんの方が不幸でしょ?ああ珈琲が飲みたいブラックの。あのさ狂ってるのはどっちなんだろ。ふたりとも狂ってないね、ね、お姉ちゃん。地獄に堕ちたくないけどさ、普通に生きてて地獄に堕ちない人なんている?」

「まずは近所のおじぞうさんを大切にしな。地獄に堕ちても救ってくれるかもしれない。そして臭いからじゃなくてリラックスするために風呂に入れと言ってんの。クナイプの入浴剤使っていいから。地獄にいかない人間がいないなら狂ってない人間もまた同様。ほら風呂入りな。」

お姉ちゃんの目が笑っている。
ほらね、平常運転だ。
狂ってない人間はいないのかもしれない。
そして、クナイプの入浴剤(ゆずジンジャー)はわたしが買ったものだと思いだした。



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