見出し画像

ノスタルジア

子供の頃、台所の入り口に立って、祖母が料理をするのを見ているのが好きだった。
ただ好きで見ていたのかと言われれば、少し違うようにも思う。
あれはきっと、お腹が空いてしまって『早くご飯が出来ないかなぁ』という思いと、いつも食べているものがどの様にして出来るのだろう?という好奇心から来る思いとが半々ずつ、自分をそうさせていたのだろう。

私の子供時代の家庭事情は少々複雑なところがあり、小学校3年生から実家を出て一人暮らしをするまでの間は、ほぼ毎日、祖母の作るご飯を食べていた。
祖母の作る料理は美味しかったし、今の私の料理にもその味がちゃんと息づいているぐらいなのだが、いかんせん、ほぼ全てのおかずが家族全員に均等に分割され小皿に盛って提供されるため、食べ盛りの子供には、その量的に少々というか、かなりの不満があった。
(そのおかげで少しのおかずで、米を大量に食べるという技を身につけたのではあったが、、。)

だから大学進学のために一人暮らしをすることが決まった時、最初に思ったことは、ずっと思う存分食べられなかった“アレ”を自分で作り、これでもか! というぐらいに食べてやろうということだった。
その“アレ”とは、当時の私が中華料理史上の最高傑作だと信じて疑わなかった無双無敵な白米の友 “麻婆豆腐” であった。

通っていた高校には学食がなかったので、ごくたまに自分でお弁当を作って持っていっていた記憶はあるが、面倒臭いと思っていたこともあって、何をどのように作っていたかについては もうよく覚えておらず、まともに料理をしたと感じられるようなものではなかったと思う。
初めて料理と呼べるようなものを作った記憶があるのは一人暮らしを初めてからで、その歴史の一ページ目は紛れもなく“麻婆豆腐”であった。
本当に、これまでに何度作ったことか。
数えれば百や二百では済まない。
好きなものを好きなだけ食べられる。
これがいかに幸せなことであるかを十二分に思い知った。

さて、そのうちに私にも好きな女性が出来た。
彼女は堅実なタイプの女性で、付き合ってしばらくしないうちに、2人で共通のお財布を作り、買い物をして、一緒にご飯を作って食べようと提案してきた。
この頃には少しは包丁が使えるようになっていたこと、また子供の時分の記憶が手伝ってくれたこともあり、食べることだけでなく料理をすることそのものがだんだんと楽しくなってきていたので、この提案に間髪入れずに頷くことが出来た。

ある時、彼女が実家から持ってきた大根を、この時も祖母の味と後ろ姿の記憶を頼りに煮物にした。
我ながら美味しく出来たなぁと思ったが、その煮物を彼女が『少し実家に持って帰ってもいい?』と言って、タッパーに入れて運んでいった。

次の日、彼女がニコニコしながら私に、
『あのね、お姉ちゃんが大根の煮物がとても美味しいって言ってたよ。』
同時に、うちのお姉ちゃんは滅多にそういうことは口にしないというようなことを言っていた。
考えてみれば、彼女のお姉さんとはいえ、自分の知らない誰かに自分の作った料理を食べてもらうのは人生初めてで、しかもそれを“美味しい!”と言ってくれたという。
この時だったように思う、自分の中で、誰かに“美味しい!”と言ってもらうことを喜びとする火種みたいなものが生まれたのは。

あれから20年以上が経ち、今、私は料理をすることを生業の一つとしている。
あの時の種火は、誰かを照らし暖めるくらいの炎にはなっただろうか。
キャンプファイヤーのように、まわりに集う人を楽しませることはできているだろうか。
今日も妻の『美味しいね、これどうやって味付けしたの?』を聴きながら、そのことを確認する。

良い店や料理、そしてそれを作る人たちに出会うことはとても楽しい。
しかし、誰かの『おいしい!』を聴くことはそれ以上に楽しい。
人生という長い流れの中、彼女はもう隣にはいないが、
あの時のあの一言が生んだ衝動が、今でも私の中の料理の原動力になっている。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?